源頼朝
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祭祀白旗神社内 源頼朝墓所

墓所は鎌倉市の大倉山中腹に質素な石層塔が残っている。鶴岡八幡宮境内
白旗神社

死後その亡骸は彼の持仏堂に葬られた。持仏堂は正治2年(1200年)から法華堂と呼ばれ、多くの法要が営まれている。安永8年(1779年)2月には薩摩藩藩主島津重豪が現在の石塔を建てた。明治に入ると廃仏毀釈により石塔の前に在った法華堂は壊され、明治5年(1872年)、その跡に頼朝を祀る白旗神社が建てられた。なお石塔は昭和2年(1927年)に「法華堂跡(源頼朝墓)」として国指定史跡とされている。

鶴岡八幡宮境内にも白旗神社があり、社伝によると北条政子が朝廷より白旗大明神の神号を賜り正治2年(1200年)に創建したされる。源頼家の創建とも伝わる。明治21年(1888年)に現在地に遷座した。明治以降は日光東照宮の相殿にも祀られている。

現在は源頼朝公墓前祭が、毎年4月13日の命日に、鶴岡八幡宮の神職により行われている。また日光東照宮で春と秋に行われる千人武者行列では、頼朝の神輿を担ぐ行列が参道を往復し、兵庫県川西市多田神社源氏まつりでは、頼朝に扮した騎馬武者を見られる。


容姿

平治物語』は「年齢より大人びている」、『源平盛衰記』は「顔が大きく容貌は美しい」と記している。寿永2年(1183年)8月に鎌倉で頼朝と対面した中原泰定の言葉として『平家物語』に「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とある。九条兼実の日記『玉葉』は「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」(10月9日条)と書いている。身長は大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均よりは長身である。

肖像は多く伝わっている。京都神護寺蔵の肖像画(神護寺三像)は、頼朝を描いたものとして伝わり、大和絵肖像画の傑作として国宝に指定されている。しかし平成7年(1995年)に米倉迪夫が、その画法や服装から足利直義を写した物とする学説を発表し、像主について議論が続いている(→詳細は神護寺三像を参照のこと)。鶴岡八幡宮に伝わっていた木像は、江戸時代には頼朝像とされ、現在は東京国立博物館が蔵し重要文化財に指定されている。甲斐善光寺蔵の木像は文保3年(1319年)に彫られた像で、確実に頼朝像であると言われる。


人物像

頼朝配下の東国武士団は独立心が強く、同族程度の団結以外に大きな一つの組織に結集する事を知らず、戦では個々の功名にはやって各個撃破されるような体であったものを、頼朝は御家人として一つにまとめ上げた。

文治元年(1184年)4月、頼朝の推薦を受けずに朝廷の官職についた御家人たちの容姿を細かくあげつらって罵倒する記述があるが、これは頼朝が御家人一人一人の容貌を含めて熟知していた事を示すものである。ある合戦の報告を聞いて「○は討ち死に、△は遁走、というがそんな事はあるまい。○が遁走、△が討ち死にの間違いだろう」と指摘し、調べてみるとその通りであったというエピソードが『吾妻鏡』に多くある。側近の一人で公事奉行人の藤原俊兼が贅沢な衣服をまとっているのを見た頼朝は、刀で小袖を切り落とし、「千葉常胤や土肥実平などは善悪も判断できぬ程度の武士だが、衣服などは粗悪な品を用いて贅沢を好まない。だからその家は裕福で多くの家人・郎党を養い勲功をあげようとしている。それなのにお前は財産の使い方も知らず、身の程をわきまえておらん」と訓戒を加えた。このように側近官僚と東国御家人の双方ともによく知りぬき、適材適所を使いこなしていたのである。

異母弟義経や従兄義仲を滅ぼしているところから、「身内に厳しい人物」との印象が強い。反面、同母弟源希義の死に怒り狂い、仇に徹底的に復讐している面もあり、概して一条能保足利義兼のような母方から繋がる縁者は優遇している傾向がある。 自分の妻子には甘く、巻狩りで12歳の息子源頼家が鹿を仕留めた時にははしゃぎ過ぎて妻の北条政子に窘められている。

生涯において前線で戦うことは少なかったが、個人的な戦闘能力は意外と高く、石橋山の戦いでは鎧武者を一撃で倒すなど叔父源為朝譲りの強弓を披露している。 戦術家・前線指揮官として義仲や義経に劣っていたことは本人も自覚していたが、軍事組織を運営する能力では上回っており、彼らとは違った意味で名将と言える。


評価

頼朝の開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に幕府と名付けられ、王政復古まで足掛け約680年間に渡り長く続くこととなる。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されており、ほとんどの日本人義務教育で頼朝の名を学んでいる。

その一方で、人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多い。それは、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく(頼朝自身は武芸は長けていたといわれるが、戦闘指揮官としては格別の実績を示していない)、主に政治的交渉で鎌倉幕府の樹立を成し遂げたことによる。判官贔屓で高い人気を持つ末弟・義経を死に至らせたことなどから、頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くなく、小説などに主人公として描かれることも稀である。

以上は概ね現代における評価であるが、頼朝は過去にも多くの人物により評されてきた。
北条政子御家人
頼朝の死後に起きた承久の乱朝廷と幕府が争うと、北条政子は集まった御家人らに対し次のように述べた。「故・右大将軍(頼朝)が朝敵を滅ぼし関東を開いて以降、官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い。(中略)恩を知り名を惜しむ人は、早く不忠の讒臣を討ち恩に報いるべし。」これを聞いた御家人らは、ただ涙を流し報恩を誓った。頼朝の幕府内での位置と、御家人からの高い評価を知ることが出来る。
保暦間記
頼朝の死因を自らが滅ぼした源義広、義経、行家、安徳天皇の亡霊によると記している。当時からその生涯は罪深いものとして捉えられていたことを伺わせる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki