源義仲
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寿永元年、北陸では逃れてきた以仁王の子を北陸宮として擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、北陸に勢力を広める。

寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人を庇護した事で頼朝と義仲は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。3月に嫡子義高を人質として鎌倉に送る事で両者の対立は一応の決着がつく。

5月、越中国砺波山の倶利伽羅峠の戦い富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で10万とも言われる平維盛率いる平氏の大軍を破り、勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、怒濤の勢いで京都を目指して進軍する。7月22日に義仲が比叡山に入ったという噂が広まり、25日に平氏は安徳天皇を擁して都を落ち、西国へ逃れた。後白河法皇は西国へ伴おうとする平氏から身を隠し、比叡山に登った。


入京

7月27日、後白河法皇は義仲の軍勢に属する山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家と共に後白河法皇の御所に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた。法皇は勲功の第一を頼朝、第二が義仲、第三が行家として、あくまで義仲を頼朝の代官と位置づけ、頼朝に上洛を促す使者を送って義仲を牽制した。8月6日には平家一門の60余名が官職から追放され、11日に後白河法皇より義仲は従五位下左馬頭越後守、行家は従五位下備後守に任ぜられる。『平家物語』ではここで義仲が朝日の将軍という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある伊予守に、行家が備前守に移されたとしているが、義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌諱した記録は見られない(『玉葉』8月11日条)。

8月14日、義仲は新帝即位に介入し、今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であるとして、この宮を天皇として即位させるよう朝廷に執拗に申し立てた。しかし一介の武士に過ぎない義仲の意見が受け入れられるはずもなく、朝廷では義仲を制するため御占が数度行なわれた結果、8月20日に高倉天皇の皇子で安徳天皇の弟四之宮(後鳥羽天皇)を即位させた。このあたりから伝統や格式を重んじる後白河法皇や貴族社会は知識や教養がまるでない義仲を「粗野な人物」として厭うようになっていった。山村に育った義仲は、平家一門や子供時代を京都で過ごした頼朝とは違い、そうしたものに触れる機会が存在しなかったのである。

また義仲は京都の治安回復にも失敗したとも言われる。連年の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。義仲は上洛してすぐに、主立った武士達に都を守護する配置を決めて警備に当たらせたが、元々義仲の軍勢は諸国で蜂起した武士たちの寄り合い所帯であり、その中で義仲がもっとも有力だっただけで全体の統制が出来る状態になかった。後白河法皇は京都から厄介払いすることを目的として、たびたび義仲に西国へ逃れた平氏の追討を命じるようになった。法皇は自ら義仲に刀を下賜して出陣を促し、やむなく義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して後白河法皇を牽制しながら、9月20日に平氏追討のために播磨国へ向かって出陣した。


法皇襲撃

しかし海戦に不慣れな木曾源氏軍は、備中水島の戦い岡山県倉敷市)で平氏水軍に惨敗。義仲軍は10月15日に京都へ逃げ帰ってきた。義仲の出陣中に朝廷ではしきりと頼朝の上洛を促し、頼朝はこれを断って東日本からの年貢を都まで送るかわりに、東国の支配権を認めさせており(寿永二年十月宣旨)、義仲は都に戻ってからこれに抗議している。頼朝の脅威を恐れる義仲は、頼朝追討の院宣を得ようとしたり、平氏が勢力を盛り返したのを受けて法皇を伴って北国行きを計るも拒否される。義仲と不和となった行家は11月8日播磨国へ平氏追討に向かってたちまち敗れたのち、都に戻らず姿をくらませた。

法皇にはもはや義仲を受け入れるつもりはなく、義仲に対抗すべく比叡山園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などを集め、堀や柵をめぐらせ法住寺の武装化を計る。義仲陣営の近江源氏摂津源氏など法皇方に付く者も出てきて、数の上では義仲側を凌いだ。九条兼実は義仲を挑発する法皇の行為を「義仲たちまちに国家を危うくし奉る理なし。唯君城を構へ兵を集め、衆の心驚かさるる条、専ら至愚の政なり。これ小人の計より出づるか」「ひとえに義仲に敵対せらるるなり。はなはだ以て見苦し。王者の行いにあらず」と終始批判している。11月7日、法皇は義仲に再度平氏追討令を出して、京都から出て行くよう命じたが、頼朝の動きを警戒する義仲が承伏できるものではなかった。義仲は「君(法皇)に立ち向かう心はありません」と神妙に対応した。

しかし11月17日、法皇は改めて義仲に京都退去を要求し、応じない場合は「追討の院宣」を下すと通告。18日には後鳥羽天皇が法住寺殿へ行幸、公卿らも参内して義仲追討の院宣が下されようとしていた。19日、ついに爆発した義仲は法住寺殿を襲撃して火を放ち、法皇の徴兵に積極的に関与した天台座主明雲や後白河法皇の皇子である円恵法親王など百余人を殺害、裸形の女房らが逃げまどう中、法皇と後鳥羽天皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉して勝ち鬨の声をあげ、政権を掌握した。義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという(『愚管抄』)。『平家物語』で義仲が藤原基房(前関白)の娘藤原伊子を強引に自分の妻にしたという部分は史料にはみられないが、義仲が11月21日、22日に基房と深く接触している事から、ありえた事と思われる。11月28日には法皇に与した公卿44人を解官。12月1日、院の御厩となり、さらに12月22日、基房の子でわずか12歳の藤原師家内大臣摂政に任命させる。12月15日には法皇に強要して鎌倉の源頼朝追討の院宣を出させている。


最期

寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉の軍勢が墨俣を越えて美濃へ入ったという噂を聞いて、義仲は大いに畏怖する。1月10日には自らを征夷大将軍に任命させた(後世の編纂史料『吾妻鏡』『百錬抄』による。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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