清浦奎吾
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国民の期待に応えぬ「特権内閣」清浦奎吾

1914年大正3年)、シーメンス事件のあおりで倒れた第1次山本内閣の後を受けて、清浦は組閣の大命を受けたが、海軍拡張について調整がつかず、海軍大臣を得られずに大命を拝辞した。鰻丼の香のみ嗅いで食べさせてもらえなかったとして、世間ではこれを「鰻香内閣」と呼んだ。また、これより前の1906年(明治39年)から枢密顧問官となっていた清浦は、1922年(大正11年)に山縣が死去すると後任の枢密院議長に就いた。そして翌年第2次山本内閣虎ノ門事件で総辞職すると、総選挙施行のため中立的な内閣の出現を望む西園寺公望の推薦によって、組閣の大命は再び清浦のもとに降下した。

しかし、かつて清浦が貴族院議員として所属した貴族院会派の研究会が組閣をリードし、外務大臣と軍部大臣以外の全ての閣僚に貴族院議員が充てられたことから、新聞や政党はこれを清浦「特権内閣」と攻撃した。清浦は加藤友三郎山本権兵衛に続いて三人目の非政党首班だったが、加藤友三郎内閣には少なくとも三人の大臣が交友倶楽部政友会の貴族院における会派)から入っており、また第2次山本内閣は総理と陸海大臣以外の全大臣を政友会議員または政友会系の官僚で占めるという事実上の政友会内閣だったのに対して、清浦内閣では貴族院枠7のうち研究会が3、他会派が3、無所属が1と言う配分であり、明らかに研究会を与党とする内閣であった。そのため政権発足から数ヵ月もすると衆院の政友会、憲政会革新倶楽部の三会派(いわゆる護憲三派)によって組織期的な倒閣活動が始まった。これが第二次護憲運動である。

この陰で、政友会の床次竹二郎一派149名は脱党し、政友本党を結成して清浦内閣の与党となった。その一方で、研究会の勢力拡大とその党派性の強い議会運営に反感を抱いていた「幸三派」と呼ばれる反研究会勢力による貴族院内での清浦批判も勢いづいた。これを受けて清浦は議会内外における護憲三派の行動などを理由に衆議院を解散したが、これは「懲罰解散」と呼ばれ各層の反感を買った。選挙の結果、護憲三派で281名が当選、一方で与党の政友本党は改選前議席から33減の116議席となった。清浦はこの結果を内閣不信任と受けとめ、「憲政の常道にしたがって」内閣総辞職した。5ヵ月間の短命内閣であった(もっとも、清浦を推挙した西園寺から見れば、清浦内閣は選挙管理内閣でしかなかったのであるから、その役目は果たしたと言えるだろう)。

その後清浦は重臣に列し、新聞協会会長なども歴任した。1941年(昭和16年)の重臣会議東條英機の後継首相擁立を承認したのを最後に政治活動から引退。1942年(昭和17年)年11月5日、92歳の長寿を全うして死去した。

著書に『明治法制史』がある。1992年に、清浦の生家・明照寺の隣に清浦記念館が建てられた。


叙位・叙勲

1902年2月27日 男爵

1907年9月21日 子爵

1928年11月10日 伯爵


関連メモ

東京都大田区中央1丁目の春日神社の石製社号標「村社 春日神社」は清浦の筆跡。

春日神社:大田区中央1丁目14-1


補注^ 清浦の枢密顧問官就任の背景には清浦が自分に代わる山縣閥の首相候補になることを恐れた桂太郎が、清浦をその勢力基盤である貴族院から追い出すためであったと言われている。(尚友倶楽部「貴族院の会派研究史 明治大正編」(1980年)がこの説を採る)


関連項目

清浦内閣

清浦錬子(妻)


外部リンク

歴代総理の写真と経歴

清浦奎吾 近代日本人の肖像

清浦記念館

関連情報サイト「くまもと発見!」第62号

          歴代内閣総理大臣          
第22代
山本権兵衛23
1924年第24代
加藤高明

伊藤博文
?田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衞
寺内正毅
原敬

高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一
濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介

廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎
阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki