1999年?2000年
しかし、1999年には小野や外国人選手の故障、選手補強が引き続き厳しい環境だった経営的要因等のために成績は再び低迷。シーズン途中で経営陣は原監督を更迭し(後にFC東京の監督となる)、後任にア・デモスを迎えるが、ついに年間順位で15位となり、J2へ降格した。この時は最終戦で福田がVゴールを決めて勝利したにもかかわらず得失点差1で降格となり「世界で一番悲しいVゴール」と呼ばれた。Jリーグトップクラスの人気チームがJ2降格という出来事は、世間にも衝撃を与え、テレビや新聞、雑誌等でも特集された。また、浦和のJ2降格は翌2000年のJリーグ全体、とりわけJ1リーグ関係の経営収支にも潜在的に僅かながらだが悪影響を与えたとも言われている。一方でJ2の試合では多くのレッズサポーターが遠征を行ったことで観客動員数が増加し、各J2クラブに大きな刺激を与えた。
2000年シーズンも苦戦が続いたがJ2の2位となり、J1へ復帰。3位大分との勝ち点差はわずか1点だった。最終節のサガン鳥栖戦の延長前半5分に土橋正樹のVゴールでようやく勝利するという際どさであった(「2000年J2最終節」を参照)。
レッズのメインホームスタジアム・埼玉スタジアム2002
2001年 - それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ路線変更。しかしブラジルに強力なコネクションがあるはずもなく、監督のチッタの意向で獲得したアドリアーノが全く機能せず、結果は失敗に終わる。第1ステージ終了後に小野伸二がオランダのフェイエノールトへ移籍。その後、2000年は札幌に在籍し、2001年に川崎へ移籍したエメルソンを獲得した。10月13日、埼玉スタジアム2002でのこけら落し(横浜F・マリノス戦)に60,553人の観客を集め、リーグ戦初の6万人試合となった。
埼玉スタジアム2002は2002年まではW杯開催に備えた芝生管理のため試合数は制限されていたが、2003年から駒場スタジアムとの併用の形で正式な本拠地として登録され、現在は観客数の増大に対応するためリーグ戦の殆どの試合で使用されている。なお、これに伴い駒場スタジアムはリーグ戦では年間1?2試合程度の開催に減少したが、カップ戦などでは現在もメインで使用されている。
2002年
2002年 - 日本代表や磐田・京都で指揮を執ったハンス・オフトが監督、元広島監督のビム・ヤンセンがコーチに就任し、再度ヨーロッパ・サッカー路線へ戻る。第2ステージは第9節まで無敗(8勝1分)で首位に立っていたが、その後6連敗で中位に沈んだ。また、ナビスコ杯では決勝で鹿島アントラーズに敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たし、タイトル獲得への手応えを掴んだ(この試合のチケットが発売開始わずか数十分で完売し、チケットを手に入れられなかったサポーターも多数いた。レッズサポーターの絶対数の多さと優勝に賭ける熱意を世間に知らしめることとなった。この傾向は、レッズが決勝進出した2003年と2004年にも続いた)。苦難の時代を長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。
この年、森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再スタートし、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。
2003年
2003年 - 福田正博の引退試合が埼玉スタジアム2002に5万人以上もの観客を集めて行なわれる。11月、再びナビスコ杯の決勝で鹿島アントラーズと対戦。前年は鹿島の前に0-1で涙をのんだが、今回は主力の多くが不在の鹿島を終始圧倒して4-0で圧勝、前年の雪辱を果たして初タイトルを獲得した。この試合では、スタンドの8割を埋めたレッズサポーターによる大掛かりなパフォーマンスが繰り広げられた(選手入場時と後半開始時に、鹿島側ゴール裏を除くスタンドのほとんどを浦和のチームカラーである赤・白・黒のシートで彩った。試合後地元に残ったサポーターに対する「優勝報告会」が駒場で行われた)。なおその直後、J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。
前年に社長就任した犬飼基昭が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。
2004年ヤマザキナビスコカップ決勝
2004年 - オフトに代わってブッフバルトが監督として復帰し、ヘッドコーチに横浜F、市原、京都の監督を務めたゲルト・エンゲルスを迎える。