親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。
この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。
室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。
この講のよる信者の団結力は、蓮如の制止にも拘わらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、徳川家康・上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。中でも、薩摩の島津氏は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った(かくれ念仏)。
やがて応仁の乱(1467年-1477年)が起こり、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した富樫幸千代に味方したのに対し、本願寺派の門徒は越前の大名朝倉孝景の仲介で、文明6年(1474年)、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、長享2年(1488年)、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった(ただし富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。その後、門徒の矛先は朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。
一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科本願寺が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。これにより本拠地を失った本願寺は、蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山本願寺)。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍とその周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。
永禄11年(1568年)に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、本願寺十一世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆(長島一向一揆)は尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)[4]と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)[5]とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、現在の名称に影響している。
また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。