洞爺丸
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海難審判

1954年9月27日、函館地方海難審判理事所の理事官が、重大海難として高等海難審判理事所から応援を得て調査を開始。

10月1日、函館地方海難審判理事所所長が中間発表の記者会見で「調査の結果荒天準備が不十分で、船長の過失のにおいが濃くなった」と発表。 同じ頃,最高検察庁は「平常の経験からこの程度では航行出来ると判断して出航したらしいので、業務上過失にはならない。また船長が死亡しているので問題にならない」との見解を発表。

11月27日、函館地方海難審判理事所は函館地方海難審判庁に洞爺丸を含む5隻の沈没事故について審理申立を行なう。

1955年2月15日、函館地方海難審判庁で第一回の審理開始。 受審人は各船の所属乗組員9名(事故当時非番のものを含む)。指定海難関係人は日本国有鉄道の総裁であった長崎惣之助及び青函鉄道管理局長、中央気象台長、函館海洋気象台長を指名。この後生き残った乗客・乗組員、青函局部課長、造船技師などを証人として審理が行われた。

2月25日、東京大学加藤弘教授らによる「洞爺丸等復元性鑑定書」が提出。

9月5日、理事官、受審人、指定海難関係人及び海事補佐人による最終弁論。

9月22日、洞爺丸について函館地方海難審判庁の裁決言渡。主文は「船長の運航に関する職務上の過失に起因して発生したものであるが、船体構造及び連絡船の運行管理が適当でなかった事も一因である」とし,指定海難関係人十河信二(長崎惣之助の後任の日本国有鉄道総裁)に対して勧告した。気象台と青函鉄道管理局長については勧告を見送った。

12月21日、十勝丸・日高丸・北見丸・第十一青函丸について函館地方海難審判庁の裁決言渡。十勝丸・日高丸・北見丸については洞爺丸と同様の裁決となった。第十一青函丸については乗組員全員死亡により原因不明とされた。 これらに対し理事官・国鉄の双方から二審請求が提出される。

1956年4月6日、高等海難審判庁で第二審の審理開始。

1957年1月22日、この日の審理で気象庁から発表された「昭和二十九年台風十五号報告」に対する説明が行なわれ、国鉄側からも質疑を行う。

1959年2月9日(他四隻については1960年3月15日)、ほぼ一審裁決を踏襲した裁決を発表。ただし、国鉄に対してはすでに改善措置がとられているとして勧告はなされなかった。

国鉄は内容を不服として東京高等裁判所に裁決取り消しを求めて提訴したが、同高裁は1960年8月3日、「海難審判の裁決は意見の発表に過ぎず、行政処分ではない」として訴えを却下。8月15日に最高裁判所に上告したものの、1961年4月20日に上告を棄却して裁決が確定した。

審判進行中から殉職した船長が弁明の機会のないまま一方的に断罪される事について疑問視する意見が出ていたが、その後、海難審判庁では海難審判制度改革の議論の中で、「海難で船長が殉職した場合、一言の弁明の機会もないまま裁決文に『職務上の過失』と明記されるのはいかがなものか」とされ,その後船長が殉職した海難事故では裁決理由の中に船長名が出たとしても『船長の職務上の過失』の語句は使用しないと申し合わされる事となった。


事故後の流れ

この事故をきっかけに、既存連絡船の改修が行われ船尾水密扉の設置、蒸気機関への重油燃焼装置、自動給炭機設置やディーゼル機関船への転換が行われ、青函連絡船の運航もそれまで船長の独断に任されていたものが船長と青函局指令との合議制になり、船体構造についても車両積載口への水密扉の設置、復元性の向上、車両甲板下の旅客区画の廃止等大きく変更され、それまでにも増して安全性に力が入れられた。事実、その後1988年3月13日の終航まで、青函連絡船で2度とこのような大きな事故がおきることはなかった。

また、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が急速に具体化されることになったのである。

七重浜には、事故の翌年に犠牲者を悼む慰霊碑が建てられ、現在も海峡を行く船を静かに見守っている。

洞爺丸の船体は後日引き揚げられたが、引き揚げの遅延も災いして上部構造の損傷が著しく、現場検証後に解体された。また、第十一青函丸、北見丸も引き揚げ後解体された。一方、十勝丸と日高丸は、引き揚げ後車両甲板より上部の船体を新製(引き揚げ時、車両甲板より上は全て失われていた)して1956年に航路に復帰。日高丸は1969年、十勝丸は最後の蒸気タービン船として1970年まで使用された。マイネフ38は翌1955年7月の等級制変更によりマロネフ49となったものの、マロネフ49 5は現車が存在しない書類上だけの車号となった。本船の保全命令が解かれた同年10月に正式に廃車手続きが取られた。

なお、後年本事故をモチーフとした水上勉の小説「飢餓海峡」(「層雲丸」として登場)が発表された。作品中では乗船名簿にない2名の遺体が確認されたことになっているが、実際の事故では乗船名簿の整備が不十分であったこと、函館港停泊中に船員の制止を振り切って下船した者や、本来は連絡しない急行「あかしや」から予定外の乗り継ぎ客などがおり、また正確な犠牲者数を確定できなかった(殉職した国鉄職員については確定している)。本文中に記された1,430名という犠牲者数も数ある報告値の一つである。


関連項目

日本国有鉄道

国鉄戦後五大事故

紫雲丸事故宇高連絡船紫雲丸の事故)

飢餓海峡(本事故をモチーフとした作品)

虚無への供物(本事故をモチーフとした作品)

洞爺丸はなぜ沈んだか(本事故のドキュメンタリー)

青函連絡船 洞爺丸転覆の謎

うしおととら」(作中エピソードに、本事故をモチーフとする「勇雪丸」沈没事故を扱ったものがあり、真摯な追悼の意が捧げられている)

冨吉榮二(元逓信大臣右派社会党衆議院議員。菊川忠雄議員と北海道遊説の帰途に遭難)

西塚十勝中央競馬調教師。転覆した便の切符を持ちながらもたまたま乗船せず、難を逃れた強運の人として知られる)


外部リンク

海難審判庁昭和20年代(汽船洞爺丸遭難事件)

JST失敗知識データベース > 失敗事例 > 青函連絡船洞爺丸の沈没

洞 爺 丸 台 風(flash index)
カテゴリ: 日本国有鉄道 | 日本国有鉄道の船舶 | 北海道の歴史 | 日本の鉄道史 | 鉄道事故 | 海難事故

更新日時:2008年9月26日(金)13:54
取得日時:2008/10/06 11:50


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki