汪兆銘
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清朝政府に対するテロ計画

1910年、汪は革命運動を鼓舞するため、清朝要人の暗殺を計画した。汪は北京で写真屋になりすまし、密かに爆弾を用意、ターゲットを醇親王載?に定めたが、結局は未遂に終わった。汪はまもなく清朝政府に逮捕される。汪は死刑を覚悟したが、革命派との融和を図る民政部尚書粛親王善耆の意向により、終身禁固刑に死一等を減ぜられることとなった。


中華民国成立から孫文死去まで

革命軍が蜂起し勢力を広げる中、1911年11月、清朝政府の大赦により、汪は釈放された。やがて辛亥革命により清朝は崩壊し、1912年1月1日に中華民国が成立したが、この成立宣言の文章を起草したのは汪である。この年汪は、革命運動の仲間でありのち汪兆銘政府で重要な役割を果たす陳壁君と結婚した。なお陳壁君は、ペナン島の有力華僑の出である。

1912年3月、袁世凱が臨時大総統に就任したが、「皇帝」への野心を持つ袁世凱孫文らの対立が表面化し(第二革命)、1913年、孫文は日本へ、汪はフランスへ亡命することとなった。袁世凱政府が崩壊して新政府が誕生すると、1917年、汪はフランスから帰国。孫文の下で、汪は広東軍政府の最高顧問を務めることとなる。1925年の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起草。病床にて孫文の同意を得たと伝えられる。


国民政府との関わり

孫文の死後、汪は広東で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任する。この政府には、毛沢東中国共産党メンバーも参加していた。(のち北伐開始後、政府は武漢に移る)

しかし1926年3月、中山艦事件により蒋介石との行き違いが生じ、汪は自発的に職責を辞任し、フランスに亡命した。1927年4月1日、蒋介石の招電に応じ、再度帰国。中央常務委員、組織部長に返り咲いた。なおこの時期、蒋介石は四.一二クーデターにより共産党の弾圧に乗り出した。

さらに蒋は4月18日、南京に国民政府を組織して、共産党の影響が強い武漢政府から離反した。汪は武漢政府に残ったが、やがて「共産党との分離」を決意し、武漢政府内にて清党工作を進めることとなった。

「反共産党」で一致したことから、武漢政府と南京政府の再統一がスケジュールにのぼり、蒋介石が下野して両政府は合体することとなった。汪は新政府で、国民政府委員、軍事委員会主席団委員等の地位に着いている。しかし共産党の広東蜂起の混乱の責任をとって汪は政界引退を表明し、再びフランスへ外遊することとなる。

一方国内では、独裁の方向に動き出した蒋と、その動きに反発する反蒋派との対立が生じる。汪は反蒋派から出馬を請われて帰国し、1930年9月、北京にて国民政府を樹立した。しかし北京国民政府主席は戦局の不利を見てすぐに下野を表明し、政権はわずか1日で瓦解した。汪は国民党から除名処分を受ける。

汪はしばらく香港に蟄居していたが、1931年5月、反蒋派が結集した広東国民政府に参画した。満州事変を機に蒋政府との統一の機運が高まり、1932年1月1日、蒋と汪が中心となる南京国民政府が成立した。汪はこの政府で、行政院長、鉄道部長の地位に着く。

1933年5月、汪は関東軍の熱河侵攻に伴う塘沽停戦協定の締結に関わった。実質的に満州国の存在を黙認するものであったが、これは汪の「一面抵抗、一面交渉」という思想の現れでもあった。汪はその後、政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めることとなる。


汪兆銘狙撃事件

1935年11月1日、国民党六中全会の開会式の記念撮影の時、汪兆銘は狙撃された。汪は三発の弾を受けたが、幸いにして弾は急所を外れていた。この時体内から摘出できなかった弾が、のち骨髄腫の原因となり、汪の命を奪うこととなる。犯人はただちに逮捕されたが、その背景は今日に至るも不明である。

汪は療養のため、1936年2月、ヨーロッパへ渡った。(1937年1月帰国)狙撃の治療に訪れたドイツで、ナチス党幹部と交流をもつ汪(1936年)


蒋介石との訣別

1937年7月、盧溝橋事件を機に日中戦争が始まった。徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害に心を痛め、和平グループの中心的存在となった。

10月12日には汪はロイター記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蒋介石との対立は決定的なものとなった。今井武夫によれば、汪は11月16日の蒋との話し合いで、蒋との訣別を決心したと伝えられる(「支那事変の回想」P85)。

一方、1938年3月頃から、日中の和平派が水面下での交渉を重ねるようになったが、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」に発展していく。

1938年11月、上海で、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭や今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の二年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。

その合意の実現のため、汪側は、「汪は重慶を脱出する。日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表し、昆明、四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定した。

この計画に従い、1938年12月18日、汪はついに重慶脱出を決行した。12月20日、ハノイ着。汪の脱出に前後して、陳公博、陶希聖、梅思平らの汪グループも、それぞれ重慶から脱出した。しかし汪の期待に反して、昆明の龍雲、四川の潘文華、第四戦区(広東・広西)の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちは、ついに汪に同調することはなかった。

さらに汪にとって打撃となったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明である。声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、汪グループに強い失望を持たせる結果となった。

12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた(「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる)。蒋政権はただちに汪を国民党から永久除名した。

そして1月、肝心の近衛文麿は突然首相を辞任してしまい、かくして汪の構想は完全に頓挫することとなった。


ハノイでの狙撃事件

当初の構想が挫折した汪は、しばらくハノイに滞在することになる。1939年3月21日、国民党の刺客が汪の家に乱入、汪の腹心であった曾仲鳴を射殺した。刺客は汪を狙ったが、たまたま当日は汪と曾が寝室を取り替えていたため、曾が身代わりに犠牲になったものだった。

日本側は、ハノイが危険であることを察知し、汪をハノイから脱出させることにした。影佐禎昭、犬養健らがこの工作に携わり、4月25日、汪はハノイを離れ、5月6日、上海に到着した。


汪兆銘政府の成立

一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意することとなる。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国−日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものであった。

上海に移った汪は、ただちに日本を訪問し、新政府樹立への内諾を取り付けた。そして8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく、上海で「第六次国民党全国大会」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した。

そして、日本占領地内の傀儡政権の長であった王克敏、梁鴻志と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)三分の一、臨時維新両政府(王、梁政府)三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を設立することとなった。

次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪工作への関わりが深い関係者も、「権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった」(今井武夫「支那事変の回想」P103)、「十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki