汪兆銘
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汪兆銘政府の成立

一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意することとなる。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国−日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものであった。

上海に移った汪は、ただちに日本を訪問し、新政府樹立への内諾を取り付けた。そして8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく、上海で「第六次国民党全国大会」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した。

そして、日本占領地内の傀儡政権の長であった王克敏、梁鴻志と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)三分の一、臨時維新両政府(王、梁政府)三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を設立することとなった。

次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪工作への関わりが深い関係者も、「権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった」(今井武夫「支那事変の回想」P103)、「十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。・・・堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可能である」と答へざるを得なかつた」(影佐禎昭「曾走路我記」)と回想している。

あまりの過酷な条件に、汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどであった。また1940年1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が運動から脱落して「内約」原案を外部に暴露する、という事件も生じたが、最終的には日本側が若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった。

かくして、1940年3月30日、南京国民政府政府の設立式(国民党の正統な後継者であることを主張するため「南京遷都式」の形式をとった)が挙行された。汪は、重慶政府との合流の可能性を睨んで、当面新政府の「主席代理」に就任した。(1940年11月「主席」就任)


南京国民政府のその後

新政権は誕生したものの、結局は汪の意図したような「重慶政府との和平」は実現せず、戦争は継続されることとなった。


死去

1943年東京で開かれた大東亜会議に、南京国民政府代表として他のアジア諸国の首脳とともに出席。その後も度々来日したが、狙撃の際の傷がもとで病状が悪化し、1944年に治療のため滞在していた名古屋多発性骨髄腫により死去した。

小牧飛行場から遺体を飛行機に乗せて送り出す際には、近衛文麿重光葵等が見送りに訪れた。南京郊外の梅花山に葬られる事となったが、墓を暴かれることを恐れ、棺はコンクリートで覆いがされた。

終戦後の1946年1月15日、国民党第七四軍は、墓のコンクリートの外壁を爆破、汪の棺桶を取り出した。遺体はまもなく火葬場で灰にされ、遺骨も野原に捨てられたという。「漢奸」の墓を残すわけにはいかない、との考えからと見られる(劉傑『漢奸裁判』)。


関連項目

汪兆銘政権

Portal:大東亜共栄圏

先代:
孫科中華民国行政院長
1932年 - 1935年次代:
蒋介石
カテゴリ: 中華民国の人物 | 中国の政治家 | 太平洋戦争の人物 | 広東省出身の人物 | 1883年生 | 1944年没

更新日時:2008年7月20日(日)09:57
取得日時:2008/08/15 23:03


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki