1937年7月、日中戦争が始まった。徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害に心を痛め、和平グループの中心的存在となった。
10月12日には汪はロイター記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蒋介石との対立は決定的なものとなった。今井武夫によれば、汪は11月16日の蒋との話し合いで、蒋との訣別を決心したと伝えられる[1]。
一方、1938年3月頃から、日中の和平派が水面下での交渉を重ねるようになったが、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」に発展していく。
1938年11月、上海で、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭や今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の二年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。
その合意の実現のため、汪側は、「汪は重慶を脱出する。日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表し、昆明、四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定した。
この計画に従い、1938年12月18日、汪はついに重慶脱出を決行した。12月20日、ハノイ着。汪の脱出に前後して、陳公博、陶希聖、梅思平らの汪グループも、それぞれ重慶から脱出した。しかし汪の期待に反して、昆明の龍雲、四川の潘文華、第四戦区(広東・広西)の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちは、ついに汪に同調することはなかった。
さらに汪にとって打撃となったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明である。声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、汪グループに強い失望を持たせる結果となった。
12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた(「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる)。蒋政権はただちに汪を国民党から永久除名した。
翌1940年1月、近衛文麿は突然首相を辞任し、汪の構想は完全に頓挫することとなった。
当初の構想が挫折した汪は、しばらくハノイに滞在することになる。1939年3月21日、国民党の刺客が汪の家に乱入、汪の腹心であった曾仲鳴を射殺した。刺客は汪を狙ったが、たまたま当日は汪と曾が寝室を取り替えていたため、曾が身代わりに犠牲になったものだった。
日本側は、ハノイが危険であることを察知し、汪をハノイから脱出させることにした。影佐禎昭、犬養健らがこの工作に携わり、4月25日、汪はハノイを離れ、5月6日、上海に到着した。
一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意することとなる。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国?日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものであった。
上海に移った汪は、ただちに日本を訪問し、新政府樹立への内諾を取り付けた。そして8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく、上海で「第六次国民党全国大会」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した。
そして、日本占領地内の傀儡政権の長であった王克敏、梁鴻志と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)三分の一、臨時維新両政府(王、梁政府)三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立することとなった。
次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪工作への関わりが深い関係者も、「権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった」[2]、「十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。・・・堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可能である」と答へざるを得なかつた」[3]と回想している。
あまりの過酷な条件に、汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどであった。また1940年1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が運動から脱落して「内約」原案を外部に暴露する、という事件も生じたが、最終的には日本側が若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった。
1940年3月30日、南京国民政府の設立式が挙行された[4]。汪は、重慶政府との合流の可能性を睨んで、当面新政府の「主席代理」に就任した(1940年11月「主席」就任)。なお、新政府では妻の陳壁君も重要な役割を果たすことになった。
新政権は誕生したものの、結局は汪の意図したような「重慶政府との和平」は実現せず、戦争は継続されることとなった。
1941年12月8日、太平洋戦争が始まったが、汪は事前に日本の開戦決意を知らされておらず、「和平」の実現がますます遠のいたことに衝撃を受けたという。汪は日本の国力では英米に対抗できないとの判断から開戦には反対していたが、結局汪兆銘政府も参戦することになり、1943年には東京で開かれた大東亜会議に、汪は南京国民政府代表として他のアジア諸国の首脳とともに出席した。
1944年に入ると、狙撃の際に受けた傷が激しく痛み始め、まもなく下半身不随の重体となった。同年3月3日には渡日して名古屋大学病院に入院。多発性骨髄腫と診断された。汪は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続けたが、11月10日、そのまま名古屋にて客死した。
遺体を小牧飛行場から飛行機に乗せて送り出す際には、近衛文麿、重光葵等が見送りに訪れた。南京郊外の梅花山に埋葬されたが、墓を暴かれることを恐れ、棺はコンクリートで覆いがされた。
終戦後の1946年1月15日、国民党第七四軍は、墓のコンクリートの外壁を爆破、汪の棺を取り出した。遺体はまもなく火葬場で灰にされた後、野原に捨てられたという。「漢奸」の墓を残すわけにはいかない、との考えからと見られる[5]。
脚注^ 今井武夫『支那事変の回想』P85
^ 今井武夫『支那事変の回想』P103
^ 影佐禎昭『曾走路我記』
^ 国民党の正統な後継者であることを主張するため「南京遷都式」の形式をとった。
^ 劉傑『漢奸裁判』