佐藤栄作と並び吉田学校の双璧であり、吉田茂の最側近として、連合国との講和、冷戦下における日米関係の構築にかかわると同時に、戦後日本経済の再編成においても指導的な役割を担い、首相就任後は所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展にもっとも大きな役割を果たした政治家の一人。
野田卯一、福田赳夫と共に、「大蔵省の3田」と呼ばれる。なお、大蔵省では、京大出身者初の局長(主税局長)経験者であり、2006年7月に藤井秀人が主計局長より昇格するまでは、唯一の大蔵事務次官経験者であった。
年譜来日したドッジ経済財政顧問とその妻を歓迎する池田蔵相
1899年(明治32年) 広島県吉名村(現・竹原市)に造り酒屋を営む父・池田吾一郎、母・うめの子として生まれる。
旧制忠海中学校、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部へ。大学卒業後、大蔵省へ入省。
1929年(昭和4年) 宇都宮税務署長。落葉性天疱瘡を発症し、大蔵省を休職。
1931年(昭和6年) 休職期間が切れたため大蔵省を退職。
1934年(昭和9年) 大蔵省に復職(当初、日立製作所への転職を決めていたが大蔵省より強く勧められ復職する)
1946年(昭和21年) 第1次吉田内閣で、石橋湛山大蔵大臣の下で大蔵事務次官を勤める。
1948年(昭和23年) 大蔵省を退官。
1949年(昭和24年) 第24回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。
1949年(昭和24年)2月16日 第3次吉田内閣で、1年生議員でありながら吉田茂が党内の反対を押し切って大蔵大臣に抜擢。
1949年(昭和24年)3月1日 ジョゼフ・ドッジと会談し、3月7日、ともにドッジ・ラインを実施。
1950年(昭和25年)2月17日 同年4月11日まで通商産業大臣を兼務。第4次吉田茂内閣まで大蔵大臣を歴任。
1950年(昭和25年)3月1日 「中小企業の一部倒産もやむを得ない」と発言して問題になる。
1950年(昭和25年)12月7日 「貧乏人は麦を食え」と発言して問題になる。
1951年(昭和26年)9月8日 サンフランシスコ講和条約調印。全権委員として、吉田茂に同行。また、この際、秘書官として随行したのが宮沢喜一である。
1952年(昭和27年)11月27日 日本社会党加藤勘十の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と再発言。翌日、不信任案が提出され可決。
1954年(昭和29年)7月26日 自由党幹事長(12月29日まで)。
1956年(昭和31年)12月23日 石橋内閣成立。大蔵大臣に就任。
1958年(昭和33年)6月12日 第2次岸内閣成立。国務大臣に就任。
1959年(昭和34年)6月18日 岸内閣改造。通産大臣に就任。
1960年(昭和35年)7月14日 自民党総裁公選に立候補して当選。自民党4代総裁就任。
1960年(昭和35年)7月15日 岸信介内閣総辞職。
1960年(昭和35年)7月19日 内閣総理大臣に就任。第1次池田内閣が発足。
1960年(昭和35年)10月12日 自由民主党、民社党、日本社会党の党首立会演説会に出席。その席で浅沼稲次郎暗殺事件が発生。
1960年(昭和35年)12月8日 第2次池田内閣発足。
1960年(昭和35年)12月27日 所得倍増計画を決定。
1961年(昭和36年)4月17日に来日した 、ララミー牧場・主人公ジェフ役のロバート・フラーを招く。
1961年(昭和36年)6月12日 農業基本法公布。
1961年(昭和36年)6月19日 訪米し、ジョン・F・ケネディ大統領と会談。
1961年(昭和36年)7月18日 内閣改造。第2次池田内閣第1次改造内閣。
1961年(昭和36年)11月11日 非公式来日した朴正煕国家再建最高会議議長と会談。
1961年(昭和36年)11月16日 東南アジア4カ国(パキスタン・インド・ビルマ・タイ)訪問。
1962年(昭和37年)7月14日 自民党総裁選再選。
1962年(昭和37年)7月18日 内閣改造。第2次池田内閣第2次改造内閣。