江青
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若い頃の江青は都会的でスリムな美人で、男ばかりの延安で羨望の的だったらしい。1940年には1人目の娘、李訥が生まれた。江青は毛沢東と結婚したが、当然ながら夫人の立場で政治に関わることは許されなかった。

この結婚は毛沢東との不倫の末になされたものだが、このことは朱徳周恩来といった他の幹部達の非難を招くことになる。結局、毛沢東は3番目の夫人、賀子珍と離婚して江青と再婚することになったのだが、その代わり江青を政治の表舞台に立たせないことを約束させられたという。


政治活動

ところが約束は守られず、毛沢東を国家主席として中華人民共和国が建国された後の1960年代前半から、政治活動に参加するようになる。これは、その時点で、すでに他の女性との関係をいくつも持っていた毛沢東とは事実上離婚状態となっており、その無聊を慰めるために他の党幹部も江青の政治活動を容認した結果であった。


「四人組」

やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として活躍し、世界中に悪名を轟かせることになる。1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥し、京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。この背景として、女優だった頃に自分を評価してくれなかった演劇界に対して個人的怨嗟があったといわれる。

1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生、謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落しめ、張春橋王洪文姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。

表むきは夫毛沢東の忠実な部下を装い、「わたしは主席のためにパトロールする歩哨にすぎません」とよく口にしていた。嫉妬深く自分より優れた所のある女性には容赦なく攻撃し、劉少奇夫人の王光美失脚させたり、周恩来養女で女優の孫維世を死に至らしめた。


逮捕・自殺

さらに、1976年には復活した?小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。しかし同年の毛沢東の死の直後に、「四人組」の1人として逮捕された。1980年より他の「四人組」や林彪事件の関係者とともに裁判(「四人組裁判」)にかけられ、1981年死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受ける。1983年には無期懲役に減刑された。1991年に獄中で精神病の療養中に自殺した。


エピソード

江青は右の足指が6本あった(李志綏著「毛沢東の私生活」上巻243ページより)

1974年、江青はフィリピンイメルダ・マルコス大統領夫人との会見に際して武則天を意識した特別製の礼服を作らせたが、さすがの江青も着ることをためらった。背景には毛沢東の反対があったとされている。

毛沢東の葬儀で江青は黒服に黒のベールで顔を覆っていたが、アルゼンチン大統領ペロンの葬儀の時のイサベル・ペロン夫人(のち大統領)と同じ格好だったので、人々は、毛の後継者にならんとする江青の魂胆を読み取った。

「四人組裁判」の法廷においては、これが一種の「政治裁判」であることを批判・嘲笑する言動をたびたびおこない、何度も退廷処分を受けている。もっとも裁判では毛沢東の責任を検証しないなどそうした側面があったのは事実で、それ故に江青の言動が裁判を「茶番劇」から救ったと逆説的に評価する見解もある(辻康吾『転換期の中国』『文化大革命と現代中国』、いずれも岩波新書)。


関連項目ウィキメディア・コモンズには、 ⇒江青 に関連するマルチメディアがあります。

文化大革命

四人組 (中国史)

王洪文

張春橋

姚文元

王光美劉少奇の妻。外国留学の経験もあり知性と教養があったがそれが江青の嫉妬を買った。

武則天:彼女が文革期に称えた。

グレタ・ガルボ:彼女の憧れの女優。
カテゴリ: ファーストレディ | 中華人民共和国の政治家 | 文化大革命 | 1914年生 | 1991年没 | 自殺した人物

更新日時:2008年8月6日(水)14:30
取得日時:2008/08/15 16:15


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki