義宣はそれまでの居城の太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城すると直ぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)、徳川家康より出羽国久保田藩に転封を命じられた。
同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
1609年(慶長14年)、頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と城下町を拡充し二の丸に居館を構えた。天守は構えず、破風などの飾りのない質素な三階櫓(内部は5階建て)を二の丸に建造したのみである。また、櫓・多聞も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。藩校の弘道館は1841年(天保12年)に9代藩主の斉昭によって開かれた(斉昭は翌年の1842年(天保13年)に日本三名園の一つである偕楽園を城の西部に開いている)。
幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。1864年(元治元年)、遂に天狗党が筑波山で挙兵し天狗党の乱が起こった。この対立は明治維新まで続き、1868年(慶応4年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。
近現代
1871年(明治4年) - 廃藩置県により廃城。
1945年(昭和20年)8月2日 - 水戸空襲により三階櫓を焼失。
1952年(昭和27年) - 弘道館が国の特別史跡に指定される。
1964年(昭和39年) - 弘道館正庁、至善堂、正門および塀が国の重要文化財に指定される。
1967年(昭和42年) - 土塁と空堀が茨城県の史跡に指定される。
1983年(昭和58年) - 薬医門が茨城県の指定建造物となる。
2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(14番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
旧水戸城の城郭は、見学できる場所とできない場所に分かれている。
旧本丸 - 茨城県立水戸第一高等学校の敷地になっており、見学目的での立ち入りも可能。
旧二の丸 - 道路以外の学校敷地内には常時の立ち入りができない。
旧三の丸 - 水戸市立三の丸小学校を除き、弘道館は有料で、その他の敷地は無料で立ち入りができる。
関連項目ウィキメディア・コモンズには、 ⇒水戸城 に関連するマルチメディアがあります。
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外部リンク
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更新日時:2008年8月20日(水)06:56
取得日時:2008/09/02 05:39