nationの本質は主観的な意識(subjective consciousness)なのであって、それが政治的、文化的、生物学的なものであるかどうかにかかわらず、客観的に共有される特質にはよらないとする議論もある。
ヒュー・シートン=ワトソンは「ひとつのグループが相当部分を占め、みずからを一個のnationをなすべきと考えるようになったとき(consider themselves to form a nation)、あるいはかれらがすでに一個のnationをなしているかのように振舞うようになったとき(behave as if they formed one)、たちまちひとつのnationが存在するようになる」(Seton-Watson 1977, 5)と主張する。
エリック・ホブズボームも同様の立場をとり、nationを定義していう。「最初の作業仮説として、人々の十分に大きな集団があって、その成員が自らを「ネイション」の一員とみなしているのであれば」(regard themselves as members of a “nation”)、それをネイションとして取り扱うことにしよう」(ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』 邦訳 p10)
まさしくこうした意味において、アーネスト・ゲルナーは一方では、まず闘争がはじめにあって、そのあとに、nationがやって来ることができるということを主張し、他方ではまた、ひとつのnationはかならず、互いにひとつのnationに属しているとみなしている人々からなる必要があることを強調する。(Gellner 1983, 48-9)。nationとは人間の信念と忠誠心と連帯感とによって作り出された人工物なのである。(例えば、ある領域の住人であるとか、ある言語を話す人々であるとかいった)単なる範疇に分けられた人々は、もし彼らが、共有するメンバーシップの故に、互いにある相互的な権利と義務とを持っていると固く認識するならば、その時、nationとなる。ある範疇の人々をnationへと変えていくのは、お互いがそのような仲間であるという認知であって、何であれ、彼らをメンバー以外の人々から区別するような他の共通する属性ではないのである。(『民族とナショナリズム』ゲルナー 加藤節 監訳 p12 原著1983 原文はnationは民族)
実際、こうした現代の研究者がnationの主観的な構築性を指摘するはるか以前に、こうした観点はいまでは古典となっている社会科学の著作のなかにはやくから現れていた。社会学の巨匠マックス・ウェーバーは民族体(nationhood)の間主観的側面を強調し、グループのいわゆる客観的特質は、nationを定義するのには役に立たたず、そのため、nationという概念が、「価値的領域(sphere of values)」に属していることを発見するに至った。nationという概念は、主として、本質的に、「ほかのグループを前にしてもつ一種特別の連帯感情」の上に作り上げられている。(Weber 1958, 172)。
ルナンもまた1882年にはやくも指摘している。彼によれば、こうした条件、たとえば、共同の地理や地域、言語、種族あるいは宗教、そうした条件を持っているということは、少しもnationの存在の十分、あるいは必要条件とみなすことはできない。それに反して、nationは互いに関連した二つの要素をもっている。ひとつは、過去の記憶の豊かな遺産の共有(a common possession of a rich heritage of memories in the past)であり、もうひとつは、ともに暮らし、これらの遺産を受け継いでいこうという決意(a desire to live together and pass on the heritage)である。そのため、われわれがnationの本質について認識を深めようと思うのならば、こうした特別な歴史の意識から出てきた連帯感(solidarity)の探求を進めなければならない。そのため、nationは一種の道徳的形式(a form of morality)として理解されるべきなのである。(Renan 1994)。
たしかに上述の主観的な要素はnationの形成過程において重要な役割を演じていることは間違いないのだが、しかし、この主観的な意識による定義は、実際に採用するにははっきりと不十分な点が存在する。集合的な連帯感はほかのさまざまな社会的団体、家族や結社、商業組織に存在しうるもので、nationに限定されるものではない。主観的な意識は最低限の条件なのである。
解決の鍵はこうした主観的な要素が客観的な基礎の上に構築されると認識することである。現実の生活においては、nationのメンバーは、自分が集合的な連帯感によって繋がれて、ひとつの団体をなしているとはみなしていない。反対に、いくつかのそれ以外の要素を列挙する。共通の文化、祖先、歴史、政治制度、あるいは特定の地域への帰属意識などである。こうしたものによって彼らはひとつに結合されているのである。
政治学者でアジア研究者のベネディクト・アンダーソンの有名な「想像された共同体」(imagined community)を借りることで、この問題に前進をもたらすことができる。「nationとはイメージとして心に描かれた・想像された政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」。アンダースンによればnationは一種の人工物(artifact)であり、一個の「想像された政治的な共同体(imagined political community)」である。しかし、このことは、nationが「虚偽の(fabricated)」存在であることを意味しない。採用すべき戦略は、想像の様式(style)、及びこの想像を可能にした制度(institutions)を用いて、この二つの点でのnationの特殊性を理解することなのである。後者についてアンダーソンが挙げている例は「印刷-資本主義(print-capitalism)であり、またそれによって出現した、nationを一個の社会学的な共同体へと変えた新しい文学のジャンルであるところの、新聞と小説である。(Anderson 1991)実際には、しかし、日々顔を付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽(falsity-genuineness)によってではなく、それが想像されるスタイル(the style)によって区別される。(アンダーソン『想像の共同体』原著 1991, 邦訳p17-18 太字は引用者による挿入)
スタイル以外でも、共同体を区別するその他の基準をわれわれは当然見出すことができる。たとえば、その規模の大小や、行政組織の階層化の程度、内部での平等の程度などなどである。nationとナショナリズムを研究するうえで主要な目的は、nationにかかわる「想像された」集合的な連帯感の特殊な形式を見出すことである。クレイグ・カルフーンの提供する以下のリストは、多かれ少なかれひとつの共同体がnationとして想像されるための基礎的条件になりうると思われるものをあげている。
境界線(boundaries):地域的なものか、人口的なものか、両者を合わせたものかは問わない。
不可分性(indivisibility):ひとつのnationはひとつの統合された単位(integral unit)であるという主張。
主権(sovereignty)あるいは主権への希求:他のnationとの間にある種の公式な平等関係が維持され、また通常は一種の自主性と、自給自足性が維持されていることが必要とされる。
合法性(legitimacy)の「上昇(ascending)」的あり方:政府は大衆の意志(popular will)によって支持されている必要があり、最低限でも、「人民(the people)」あるいは「民族(the nation)」の利益に符合している必要がある。
集団の事務への大衆の参加(participation):nationのメンバーであるという身分を基礎として一定の人々が動員されること。(戦争にかぎらず、民間の活動においても)
成員の身分(membership)の直接性:すべての個人はnationの緊密な部分として理解され、成員の間にもまた完全な平等が存在すること。
文化(culture):言語、共有の信仰、価値、さらに風俗習慣などを含む混合物。
時間的な深さ(temporal depth):nationは時間的な実在でなければならず、過去と未来の世代を含み、同時にその歴史を持つ。
共通の祖先(descent)あるいは種族的な特性。
特別な歴史(history)や、時には、特定の地域との神聖な関係。(Calhoun 1997, 4-5)
注意すべきことは、カルフーンが正確を期して述べていることであるが、これらの特徴はナショナルな「修辞(rhetoric)」なのであって、通常nationを記述する特徴として主張(claims)されるものなのである。実際、われわれは経験的な手段(empirical measures)に訴えてnationを定義することはできない。たとえば、主権が達成されているかどうか、内部が分裂しているか、一貫性が維持されているか、あるいははっきりとした境界線を引けるかどうか、ということをいうことはできない。逆に、nationは通例大いにこれらの宣言主張によって構成されているのであり、これらの宣言主張は単に記述的なものではなく、規範的なものでもある。これらの特徴は、ナショナルな感情(a sense of nationhood)の基礎を提供するに十分でありうるが、しかし、ひとつとして絶対に必要な特徴というものはない(Calhoun 1997, 5)。異なるグループに対して、かれらが自分たちがひとつのnationを成す所以を主張するとき、そのことによって実際に、別の種類のグループが事実上建設されるのである。われわれはすべてのこうした主張を仔細に検討し、これらの主張を、その人々を結び付けている一種の信仰として認識する必要がある。ケラスは、nationは定義可能であるとして、以下のような定義を提案している。一定のグループをなす、みずからを歴史、文化、共同の祖先によって結び付けられた共同体であると感じている人々。nationは「客観的」な特徴を持ち、これらの特徴は、地域、言語、宗教、共同の祖先を含むことができ、また、「主観的」特徴として、特別な(nationality)に対する認識と感情をも含む。(Kellas 1991, 2)