1893年に清国湖南省湘潭県韶山村の地主の家庭に生まれる。3人兄弟。生家は地主といっても小規模なものであり、毛沢東は厳格な父によって子どものうちから労働に従事させられる。小学校を卒業後、長沙の中学に通い、14歳で最初の結婚をするが数年で妻は死去した。
その後、従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激をうけて16歳で故郷を離れ、いくつかの学校や地方軍などを転々とし、アダム・スミスやモンテスキューなどの社会科学系の書物に触れる。1918年、湖南省立第一師範学校を卒業し、恩師楊昌済を頼って中華民国北京政府の首都である北京に上京。大学図書館に勤めるかたわら『新青年』の熱心な寄稿者となる。
翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。このころ新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大?と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年恩師の娘・楊開慧と結婚。
1921年に、上海で中国共産党の創立成員として第一回大会(中共一大会議)に出席し、以後その指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。コミンテルンの指導に従って国共合作に重要な役割を果たすが、1927年の上海クーデターで国共合作が崩壊すると、毛沢東は江西省で蜂起(秋収起義)したが失敗、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井岡山に立て籠もることになった。
この根拠地に潜伏中に地元の名家の娘賀子珍と関係を持ち、1929年には長女が誕生している。1930年妻の楊開慧が、蒋介石率いる中国国民党軍に捕らえられて処刑される。同年、毛沢東は井岡山を去り、江西ソヴィエトを建設。主席となるが、以後四年間国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。
国民党軍に追われて1934年10月18日に根拠地を放棄し敗走、いわゆる「長征」を開始するが、この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた会議(遵義会議)で党の実権をほぼ掌握する。1937年に始まった日本との間の日中戦争においては、第二次国共合作を行い、宿敵である蒋介石と手を結び共同戦線を構築。1936年秋には陝西省延安に根拠を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示。消耗を防ぎながら抗日活動を続ける。
1938年には長征時代の妻である賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優、江青と結婚した。1940年には「新民主主義論」を著し、のちの「人民中国」の先見の明を示した。
その後の第二次世界大戦と大東亜戦争の開戦後は、国共合作の相手である国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。
1945年8月の中華民国を含む連合国に対する日本の降伏と、満州国を含む中国大陸からの日本軍の撤退後は、ソ連からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によりアメリカ政府からの軍事支援を削減された国民党軍を駆逐し、徐州を中心とする、大規模な准海戦役に勝利、1949年1月には北京に平和入城。同年4月23日国民政府の根拠地・首都南京を解放。10月1日に天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。なお、蒋介石率いる国民党政府は台湾島に遷移した。
同年には、建国後も軍事援助を続けていたソビエト連邦を訪れ、ヨシフ・スターリンと会見している。その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエト連邦とともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣。この戦争で、長男・毛岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失っている。
独裁化スターリンと毛沢東との友好関係を描くソ連のプロパガンダポスター