毛沢東
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また、スターリン批判や対米政策をめぐり、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相とも不仲となった。1950年代中旬からは中ソ対立が深刻化し、1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、キューバ危機におけるソビエト政府の対応を公式に非難するなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなった。


文化大革命

こうした大躍進の失敗は主席である毛沢東の権威を傷つけ、1959年に国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなり、さらには1962年1月に開催された七千人大会において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇−?小平ラインに移ることとなり、毛沢東の実権は大きく低下した。しかし一方、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会を窺っていた。

1965年11月北京市副市長でもあった呉?の『海瑞罷官』(かいずいひかん)を「大毒草」であるとした姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報』(ぶんわいほう)に掲載、これが端緒となり、1966年5月北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持、自ら天安門広場におもむき、百万名の紅衛兵を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ちたて、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。

これらの事により、江青林彪らを中心とし、実権派(経済政策の柔軟化を唱える党員は「走資派」という蔑称のレッテルを貼られ呼称された)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東個人崇拝見直しと代替権力として党官僚強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動である「プロレタリア文化大革命」への流れが決定付けられた。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は、「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。

文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあったものを徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万数千万とも言われている。この流れの中、毛沢東の奪権目標であった劉少奇?小平などの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。これを受け1968年毛沢東は学生達の農村への下放を指示した。1971年林彪事件以後、人材難から?小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。


米中接近と日中国交締結ニクソン大統領と毛沢東

毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京における毛沢東=ニクソン会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東はニクソン大統領と握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれる。ただし、米中が国交を樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからである。

なお、この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく1960年代以降ソ連との関係が珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などで悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」、と毛沢東は予測していた。

その後、1972年アメリカの同盟国である日本田中角栄首相もニクソンの後を追うように訪中して首脳会談を行い、国交締結(「正常化」)させる。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に訪中しただけでなく、一気に国交を結ぶまでに進めた田中角栄の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していた、といわれる。なお、中華人民共和国も中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。


死去天安門広場に飾られる毛沢東の肖像画

ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが発見された。医師らが懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。

その後も医師らによる懸命な治療は続けられたものに、1976年9月9日0時10分に、北京の自宅で側近と主治医に見守られるなか毛沢東は82歳で死去した。

毛沢東の死の直後に腹心の張春橋江青姚文元王洪文四人組逮捕・投獄され、文化大革命は完全に終了した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。


死後

毛沢東の死去後、江青ら四人組を逮捕失脚させて党主席に就任した華国鋒は「2つの全て」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。

これに対して?小平は「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。党と軍の大勢は?小平を支持し、その後?小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い「2つの全て」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。また党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki