人間が他の生物と異なる一つの特徴は、人間、とりわけ自分自身がやがて死ぬということを「知っている」ことである。いいかえると、未来を考えることができる動物は人間だけであるといえる。哲学者樫山欽四郎は、『哲学概説』において、人間の本質的な特性として「死を自覚する存在」であることを挙げ、「死を知ることがなければ、人間はこれほど楽なことはない」という趣旨の言葉を述べている[5]。
自己が死ぬことを知っているがゆえに、人間の哲学的営みは始まるのであり、古来より伝わることわざには、「哲学は死の練習である」というものがある。しかし、死を知るということは哲学への契機でもあり、また宗教への契機でもあり、更に、一般に人は、自己の死をどのように受け止めるか受け入れるか、一生をかけて問いかけ続けているともいえる。
突然に事故などで襲ってくる死の場合は、死について考える余裕さえない。しかし、飛行機事故などで、突然に、あと半時間後、一時間後には死ななければならないと自覚された場合など、人は様々な想いに耽り、短時間のあいだに死を受容せねばならない必要に迫られる。
このようなことは、戦場などの特殊な場合を除き、一般市民の日常生活においては稀にしか起こらない。しかし、回復の見込みのない病にかかり、あと、三か月ないし一か月の余命と自覚するケースは特殊なものではない。このようなケースでは、人は、自分が「死なねばならない・間もなく決まった期間の経過後、死ぬ」という事実に向き合い、死の定めをどう受け入れるか、様々な試みを行う。
死を自覚した人が、どのように自己の死の事実と向き合い、どのようにその事実を拒否したり受け入れたりするのか、多数の「死に行く人」と、言葉を交わし、心理治療に従事してきた、キューブラー=ロスは、多くの人が辿る、「死の受容への過程」を次のような段階にモデル的に示している(参考文献1)。
第一段階:「否認と孤立」
病などの理由で、自分の余命があと半年であるとか三か月であるなどと知り、それが事実であると分かっているが、あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。それは冗談でしょうとか、何かの間違いだという風に反論し、死の事実を否定するが、否定しきれない事実であることが分かっているがゆえに、事実を拒否し否定し、事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。
第二段階:「怒り」
拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかける。このとき、当然、そのような形而上学的な根拠は見つからない。それゆえ、誰々のような社会の役に立たない人が死ぬのは納得できる、しかし、なぜ自分が死なねばならないのか、その問いの答えの不在に対し、怒りを感じ表明する。
第三段階:「取り引き」
しかし、死の事実性・既定性は拒否もできないし、根拠を尋ねて答えがないことに対し怒っても、結局、「死に行く定め」は変化させることができない。死の宿命はどうしようもない、と認識するが、なお何かの救いがないかと模索する。この時、自分は強欲であったから、財産を慈善事業に寄付するので、死を解除してほしいとか、長年会っていない娘がいる、彼女に会えたなら死ねるなど、条件を付けて死を回避の可能性を探ったり、死の受容を考え、取引を試みる。
第四段階:「抑鬱」
条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。何の希望もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えない。このようにして深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込む。
第五段階:「受容」
抑鬱のなかで、死の事実を反芻している時、死は「無」であり「暗黒の虚無」だという今までの考えは、もしかして違っているのかもしれないという考えに出会うことがある。あるいはそのような明確な考えでなくとも、死を恐怖し、拒否し、回避しようと必死であったが、しかし、死は何か別のことかも知れないという心境が訪れる。人によって表現は異なるが、死んで行くことは自然なことなのだという認識に達するとき、心にある平安が訪れ「死の受容」へと人は至る。
これはキューブラ=ロスが多数の「死に行く人」の事例から観察した範型で、人は必ずしも、以上のような段階を経て、死の受容に至るわけではない。色々な自己の死との向かい合いがあることを、ロス自身も認めている。 またラ・ロシュフコーは「箴言集」の中で「死を理解する者はまれだ。多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。人は死なざるを得ないから死ぬわけだ。」と述べており、これもまた一つの死の受容の形であるといえる。 いずれにせよ、人が死を受け入れて尊厳を持って死に臨めるようにするためには、周囲の理解と協力が必要不可欠である。また自分の親しい人間に死が訪れたとき、人は大抵涙するが、国や宗教によっては「死は新たなる境地への旅立ち」というような思想もあるので、まれに笑って送り出すこともある。
古来、「死」という語を声に出したり書にしたためたりするのは不吉なことであり、多くの文化でタブーとされてきた。このため日本では、「他界」、「臨終」、「逝去」、「昇天」、「永眠」、「物故」、「逝く」、「亡くなる」、「世を去る」、「鬼籍に入る」、「あの世に行く」、「冥土(めいど)へ旅立つ」、「不帰の客となる」、「黄泉に赴く」など、さまざまな婉曲表現が用いられてきた。現在でも病院で入院患者が死亡すると、医師や看護師は他の同室の入院患者に対して「〜さんはお帰りになりました」などと説明することが多い。
宗教的に「死」を表現する場合は、神道では「帰幽」と表現し、仏教では「往生」、「成仏」(いずれも誤った用法が半ば常識化したもの)といったり、高僧の死を「入滅」、「入寂」、「遷化」などといい、キリスト教では信者の死を「帰天」、「召天」などともいう。
他にも親族の死を「不幸」、貴人の死を「身罷(みまか)る」、「お隠れになる」と表現する。また中国の古典[6]にならい、日本でも古くから王や女王および四位や五位の位階をもつ者の死を「卒去」と言い、皇族や三位以上の公卿の死を「薨去」、天皇や皇帝の死を「崩御」、「登霞」などとも表現してきた。
さらに、高齢まで生きて死ぬことを、「天寿を全うする」、「大往生する」などといい、幼くして死ぬことを「夭折する」、若くして死ぬことを「早世する」という。