死の正確な瞬間を判定する試みは、歴史的に問題を含んできた。 死はかつて鼓動と呼吸の停止と定義された[要出典]。しかし心肺蘇生術と迅速な細動除去の発達によって、以前の定義は不十分なものとなった。この以前の定義は現在「臨床死」と呼ばれている。臨床死が起こった後でも、場合によっては鼓動と呼吸を再開することがある。かつては死の原因となった出来事も、医療技術の発達によって直接は死に結びつかなくなった。心肺機能に代わる生命維持装置やペースメーカー、さらには臓器移植によっても死を避けることが出来る。
今日では死の瞬間の定義が求められたとき、医者は通常「脳死」または「生物学的死」という概念を用いる。脳の電気的活性の停止が意識の終わりを示すと考えられるため、脳の電気的活性が止んだとき、人間は死んだことになる。しかし、意識の停止は睡眠中や昏睡中にも起こりえるため、停止は一時的なものではなく、永続的で回復不能なものでなくてはならない。意識の停止がたんなる睡眠であった場合、脳波計で簡単に確認できる。臓器を移植するさい、死後早急に臓器を摘出し、移植手術を行わなければならないため、正確な脳死判定が重要となる。
しかし、人間の意識に必要なのは脳の新皮質だけである、と主張している人々は、新皮質の電気的活性だけを基準に死の判定をすべきである、と論じている。 結局のところ、大脳皮質の死によってもたらされる認識機能の永続的で回復不能な消失が、死を判定する基準となる[1]のかもしれない。 大脳皮質が失われれば、人の思考と人格を回復する望みはないからである。 しかし現時点では、より保守的な、大脳全体の電気的活性の停止をもって人の死とする論が大勢を占めている。 2005年の植物状態におちいったテリー・スキアボの尊厳死を巡る事例は、アメリカの政治を脳死と人為的な生命維持の問題に直面させた。 一般的に、そのように死の判定を巡って争われた事例での、脳の死因は無酸素状態によって起こる。 大脳皮質はおよそ7分間の酸欠で死に至る。
酸欠によって大脳皮質の機能が失われた場合でも、死の判定は難しい。 脳の電気的活性が脳波計が感知するにはあまりに低かった場合、何も存在しなくても、脳波計は偽の電気衝撃を感知することがあるためである。 このため、病院では、脳波計を使って死を判定をするときは、病院内で広く空間を隔てるなどの、精巧な実施要綱がある。
医者に死亡を宣告された後、生き返った人々の逸話が多くある(→ポー『早すぎる埋葬』: ⇒青空文庫)。
そのような逸話では、あるものは防腐処理を始めた時に、あるものは死の数日後に棺の中で意識を回復するなどして動き回ったりする。ビクトリア時代の著しい科学の進歩のため、イギリスの一部の人々は、このような早すぎた埋葬を、強迫観念的に恐れるようになった。同時代以前には、ペストなどの伝染病流行時に、感染を恐れて検死が等閑だったりするケースもしばしばあったとされ、これが死者復活(→吸血鬼やゾンビ・グールなど)の伝承となったと考える者もいる。
これらは、その当時の検死技術が完全ではなく、ショック状態における体温の急激な低下や、呼吸量の著しい減少、あるいは血圧低下による脈の微弱な状態を死亡と誤って判定したケースや、一時的な心肺停止後に偶発的に心臓の鼓動が正常に戻るなどして「生き返った」とみなされたのだろう。このため近代的な検死では、最初のチェックから一定時間後に生命の兆候がないかを再チェックするようになっている。
検死技術の発達以前における土葬では、このように生きているにもかかわらず埋葬され、生き埋めとなる可能性は誰にでもあり、またそれらの可能性は大変な恐怖を伴った。そのため発明家たちは被埋葬者の状態を棺外に伝える方法を発明した。地表にはベルと旗があり、それが棺内にひもでつながっていた。棺の蓋には金槌や滑車装置で壊せるガラスの仕切りがあった。しかし多くの人は、この滑車装置が棺にかけられた土のため機能し得ないことや、割れたガラスと土が被埋葬者の顔を覆うことに気付かなかった。
原則として医師以外の者が患者の死亡を宣言する権限はない。 消防機関の救急業務規程の中では、「明らかに死亡している場合」や「医師が死亡していると診断した場合」には、救急隊は患者を搬送しないと定められている。すなわち、それ以外の場合では、患者が生存している可能性があるものとして取り扱うことが求められている。「明らかに死亡」とは、断頭、体幹部の離断、死体硬直、死斑、腐敗、炭化、ミイラ化その他の明らかに生存状態とは矛盾する身体への損害(いわゆる社会死状態)をいう。 社会死要件を満たさない場合、救急隊員は救命措置を開始し、医師の診断を受けるまでそれをやめてはならない。病院到着時の診察で死亡が確認されることを、DOA(Dead on arrival = 病院到着時すでに死亡)という。
人間が死一般を受け止めるものとして、人称による分類が哲学者ジャンケレヴィッチにより提唱された。[2]。
一人称の死:英語での人称「I」にあたる。自分の死。一人称の死の難しいところは、自ら経験できない(つまり、死の後は知覚する主体が存在しない)という点であり[3]、根本的な不可知性から恐れの感情が生じる[4]。エピクロスは「われわれが存在している間は死は現存しないし、死が存在すればわれわれは現存しない」と述べた。
二人称の死:英語での人称「you」にあたる。親しい者の死。自らの大きな人生経験として受け止められ、愛着があるために悲哀などの感情が起こる。この死に接し、次は自分の死であると自覚させられる。
三人称の死:英語での人称「it」「he」「she」などにあたる。いわばアカの他人の死。二人称の死が取り替えのきかない存在なのに対し、他の他人の死でも置き換えられる点に特徴がある。
人間が他の生物と異なる一つの特徴は、人間、とりわけ自分自身がやがて死ぬということを「知っている」ことである。いいかえると、未来を考えることができる動物は人間だけであるといえる。哲学者樫山欽四郎は、『哲学概説』において、人間の本質的な特性として「死を自覚する存在」であることを挙げ、「死を知ることがなければ、人間はこれほど楽なことはない」という趣旨の言葉を述べている[5]。
自己が死ぬことを知っているがゆえに、人間の哲学的営みは始まるのであり、古来より伝わることわざには、「哲学は死の練習である」というものがある。しかし、死を知るということは哲学への契機でもあり、また宗教への契機でもあり、更に、一般に人は、自己の死をどのように受け止めるか受け入れるか、一生をかけて問いかけ続けているともいえる。
突然に事故などで襲ってくる死の場合は、死について考える余裕さえない。しかし、飛行機事故などで、突然に、あと半時間後、一時間後には死ななければならないと自覚された場合など、人は様々な想いに耽り、短時間のあいだに死を受容せねばならない必要に迫られる。