橘氏
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起源と変遷

橘氏の実質上の祖は県犬養宿禰三千代とされている。三千代は天武朝から命婦として仕え、文武天皇の乳母をつとめたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代ははじめ美努王の妻となり、葛城王や佐為王を生んだ。694年に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年11月25日、元明天皇大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに橘宿禰の氏姓が賜与された。

三千代が天平5年(733年)に没すると、同8年11月11日に三千代子の葛城王と佐為王が橘宿禰の氏姓継承を朝廷へ申請し、同月17日に許された。葛城王は橘諸兄へ改名し、佐為王は橘佐為を称した。諸兄は既に天平3年から参議に就いて議政官(公卿)を勤めていたが、天平9年には大納言へのぼると、翌10年には右大臣へ、同15年には左大臣へ昇進し、聖武孝謙両天皇の治世期に太政官首班として政治に当たった。天平勝宝2年(750年)正月16日には朝臣の姓を賜り、これ以降、諸兄は橘朝臣と称した。

橘氏の歴史の中で最も権勢を誇ったのがこの諸兄の時期である。諸兄が天平勝宝9歳正月に没すると、その子橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂との政権争いに敗れ、同年7月に謀叛の疑いをかけられ獄死した(橘奈良麻呂の乱)。

その後、しばらく橘氏が議政官(公卿)に名を連ねることはなかったが、奈良麻呂孫の橘嘉智子(檀林皇后)が嵯峨天皇皇后となると、状況は一変した。当時、皇后を輩出した臣下氏族は藤原氏のみであり、橘氏からの立后は貴族社会における橘氏の地位を上昇させた。弘仁13年(822年)に橘常主(奈良麻呂孫)が約70年ぶりの橘氏公卿となり、さらに嘉智子出生の皇子が仁明天皇として即位すると、嘉智子の兄橘氏公が外戚として目覚ましい昇進をとげ、承和11年(844年)には右大臣に至った。一方で、橘氏傍系の橘逸勢(奈良麻呂孫)が承和の変により排斥される事件も発生したが、嘉智子が健在の時期に橘氏は総じて勢力を大きく伸長している。橘氏の子弟教育を行う大学別曹学館院は、嘉智子により設立されたものである。

9世紀半ば - 10世紀後半の時期の橘氏公卿は、橘峰継(氏公長男)、橘広相(奈良麻呂5代の孫)、橘澄清(常主曾孫)、橘良殖(常主孫)、橘公頼(広相6男)、橘好古(広相孫)、橘恒平(良殖孫)ら7名にのぼった。その多くは参議または中納言どまりであったが、好古は大納言まで昇進した。永観元年(983年)に参議在任3日で没した恒平を最後として橘氏公卿は絶えた。

以降、橘氏は受領クラスの中下流貴族となり、中には地方に土着する者も現れた。例えば藤原純友の鎮圧のために大宰権帥として九州へ下向した参議橘公頼の子孫は、そのまま筑後に土着して武士となり、筑後橘氏を称したとされている。

中央では好古の孫にあたる則隆の子孫が嫡流として続き、中世にはこの系統から橘氏唯一の堂上家で、代々橘氏長者となった薄家を輩出した。しかし、薄家も山科言継の子で薄家に養子入りした諸光(以継)の死により16世紀後半に断絶した。

その後、江戸時代地下家として、外記方の青山家(中務省史生)・深井家(賛者)、官方の和田家(弁侍)などが橘姓を称し、中でも深井家は薄家の直系(祖の定基を以継の子とする)とされている。また、江戸時代後期の学者である頼山陽は薄家の庶流の末裔といわれている。


主な橘氏の人物

県犬養橘三千代

橘諸兄 (葛城王)? 三千代の長子。

橘佐為 (佐為王)? 三千代の次子。

牟漏女王 ? 三千代の娘。藤原房前室。

橘奈良麻呂 ? 諸兄の長男。

橘島田麿 ? 奈良麻呂の子。

橘清友 ? 奈良麻呂の子。

橘嘉智子 ? 清友の娘。檀林皇后。

橘氏公 ? 清友の子。

橘岑継 ? 氏公の子。

橘逸勢 - 能書家

橘広相 ? 諸兄の五世孫。学者。陽成天皇光孝天皇宇多天皇の3代に仕える

橘公材 ? 広相の次男。

橘公頼 ? 広相の五男。筑後橘氏の祖、大宰権帥。藤原純友の弟の純乗筑後蒲池城で迎え撃つ。

橘敏通 ? 公頼三男。藤原純友・純乗追討に活躍。筑後国蒲池の領主となる(筑後橘氏)。

千観 ? 公頼四男敏貞の子。



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki