橋本龍太郎
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第二次橋本内閣

同年11月7日、社会党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独政権となった第2次橋本内閣が発足。橋本は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」の六大改革を提唱した。

橋本は直ちに、首相直属の「行政改革会議」を設置。メンバーには武藤嘉文総務庁長官、水野清首相補佐官のほか、経団連会長の豊田章一郎連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。行革会議は翌1997年12月、

22ある省庁を「1府12省庁」に半減させる省庁再編

首相権限強化を伴う内閣機能の見直し

郵政三事業の一体公社化

公務員定数の一割削減

などを最終報告として決定した[22]。この最終報告は、1998年に成立した中央省庁等改革基本法に結実した。

1996年12月17日、ペルーリマにある日本大使公邸を現地の左翼ゲリラが占拠し、多数が人質となるペルー日本大使公邸人質事件が発生。直ちに池田行彦外相と医療チームを現地に派遣した。池田外相の帰国を受け、24日にペルーのフジモリ大統領と会談、ペルー政府を支援する方針を表明した。フジモリ大統領が武力突入を示唆し始めると、29日にフジモリ大統領に親書を送って平和解決を要請。さらに1997年1月31日、橋本はカナダのトロントでフジモリ大統領と会談し、平和解決に努力することで一致した。同年4月22日、ペルーの特殊部隊が公邸に突入。人質となっていた日本人に犠牲者を出すことなく解決した。橋本は後に、人質事件で死亡したペルー人犠牲者の家族を日本に招待した[23]

同年の通常国会で最大の焦点であった、沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ「特措法」(沖縄の米軍軍用地強制使用をめぐる駐留軍用地特別措置法)問題で、同年4月、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。橋本と小沢は特措法を成立させる事で合意し、同法は新進党の協力を得て成立した。新進党との協力が成功したことで、自民党と新進党による「保保連立」が浮上。自民党内は、加藤や野中広務らの「自社さ派」と梶山や亀井静香らの「保保派」に二分された[24][25]。橋本は自社さ派と評されるようになる[26]

同年9月、党総裁に再選され、内閣改造を行い第2次橋本内閣改造内閣が発足。梶山に代わって村岡兼造を官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を総務庁長官に起用した。これに非難が集中、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったと言う。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった[27]

橋本は対露外交にも注力し、同年11月のロシアエリツィン大統領と日露首脳会談では、2000年までに平和条約を締結する事や両国の経済協力を促進する事で合意した[28]

財政構造改革を六大改革の一つと位置づける橋本は、同年11月に財政構造改革法を成立させ、平成15年までの歳出削減を目指した。しかし、景気減速が顕著となり北海道拓殖銀行山一證券などの破綻が起こると、党内やアメリカ政府から景気対策を求める声が上がるようになった。また、山一證券の破綻で、橋本の金融システム改革に伴う金融ビッグバンへの批判が相次いだ。これを受け同年12月、2兆円の特別減税を表明。加えて翌1998年4月、4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した[29]。また同年、金融監督庁を設置。大蔵省から金融業務を分離し、金融不安に対処する体制を整えた。

同年5月、離党議員の復党などにより自民党が衆議院で過半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消。

同年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席と惨敗。橋本内閣は総辞職した[30][31]


首相退任後

首相退任後の1999年9月、橋本は小渕首相から厚生大臣への就任を打診された。2000年4月に介護保険制度導入を控えており、実力者でなければ職務に耐えられないと判断した小渕は、厚生族で重きを為す橋本に白羽の矢を立てたものだが、橋本は固辞。自分に代わって同じく厚生族の丹羽雄哉を推薦し、丹羽が厚生大臣に就任する[32]

2000年7月、旧小渕派会長の綿貫民輔衆議院議長に就任した事に伴って、派会長に就任。また同年12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、行政改革担当大臣沖縄開発庁長官に就任。自身が進めた省庁再編を担当し、翌2001年、省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。その仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。同年4月の総裁選では、派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬。橋本擁立に当たっては派内若手から異論が出た。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki