森喜朗
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首相就任のいきさつ

2000年平成12年)4月5日、3日前に脳梗塞で倒れ緊急入院した小渕恵三首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。このときの連立与党は自民党公明党保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。

森の首相就任は、当時の自民党の有力議員五人組(森喜朗本人、青木幹雄村上正邦野中広務亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれている。村上から「森さんでいいじゃないか」の発言があったと報道された。五人組の1人である村上正邦は後に週刊新潮に発表した手記できちんと党内の手続きを踏んで自民党両院議員総会にかけて総裁を選出したので密室で決めていないと反論している。


資質問題

2000年5月15日、「日本は天皇を中心とした神の国」と発言(いわゆる「神の国発言」)し、大きな波紋を呼ぶ。民主党はこれを盾に取り「日本は神の国? いいえ、民の国です」と批判するCMを打った。6月の「無党派層は寝ていてくれればいい」発言や、10月にイギリスブレア首相との会談における「北朝鮮による日本人拉致被害者を第三国で行方不明者として発見する案の暴露」など数々の発言で、首相としての資質に欠けるとの批判が各層で盛り上がった。

就任早々、あいさつまわりに訪れた橋本龍太郎元首相の事務所で、「首相動静」について「ああいうのはウソを言ってもいいんだろ」と発言。マスコミの抗議に意固地となる森を、国民との対話を軽視する性格であると、早くもマスコミは警戒感を抱いていた。

歴代内閣総理大臣の中で、森ほどマスコミが発言に対する批判を集中した例はなく、ついには総理の資質に欠けるとまでされた。総理大臣官邸での公式記者会見時、森に対し総理番記者から「今問われているのは総理の資質だと思うのですが?」という異例の質問がされたこともあった。


官房長官の交代

2000年10月27日、内閣官房長官中川秀直が愛人問題や右翼幹部との交際、警察情報漏洩などのスキャンダルで辞任。後任には当時森派の派閥会長だった小泉純一郎から推された福田康夫が就任した。閣僚経験皆無での起用には疑問の声もあったが、森が頻繁にマスコミの批判を浴び、その度に福田が火消しに回る、という構図ができあがるにつれ、その執務能力の高さが明らかになった。福田は、後の小泉純一郎内閣も含めると内閣官房長官在任日数歴代最長となった。


加藤の乱

2000年11月21日、衆議院本会議において森内閣不信任決議案が野党から提出された。当時宏池会会長で自民党の次期総裁候補の一人と目されていた加藤紘一は、森不信任は国民の多数が支持すると考え、YKKの盟友、山崎拓とともに、それぞれ自派を率い党の方針に反して本会議を欠席した(いわゆる加藤の乱)。しかし宏池会で加藤に従った者は一部にとどまり、森首相退任には至らなかった。


えひめ丸事件

2001年2月10日ハワイ沖で日本の高校生の練習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事件」(えひめ丸沈没事故)が発生した。事件の一報が入ったとき森はゴルフ場におり、連絡はSPの携帯電話を通じて入った。それにより日本人が多数海に投げ込まれたことや、相手がアメリカ軍であることも分かっていたが、森は第三報まで1時間半プレーを続け、これが危機管理意識上問題とされた。当時国会でも採り上げられ、その詳細が議事録に残っている( ⇒第151回国会 予算委員会 第8号(平成13年2月19日)など)。

午前10時50分に第一報を受けたあと午後0時20分の第三報まで、3ホールを回ったとのことである。連絡は携帯電話を通して伝えられた。マスコミにこのことを問いただされた森が「プライベートだ」と答えたことで批判は拡大した。

当日プレーしていたゴルフ場(戸塚カントリー倶楽部)の会員権は知人から無償で借り受けて自分名義としており、このことも批判を増幅させた。

森の主張によると、えひめ丸事件の一報が入った時、その場を離れないように言われたのでゴルフ場で待機していたとのことである。この事件の報道で違う日に撮影された森のゴルフプレイ姿が繰り返し放送されたため悪印象が増幅した。

事故を起こしたアメリカ側はブッシュ大統領が「事故の責任は全てアメリカにある」と謝罪。マスコミはこれを異例の素早い対応と評価、日本の事後処理の印象を一層悪いものとした。


支持率

上記のいきさつにより任期を通して内閣支持率は低かった。任期の終わりごろには、遂に支持率が5.7%となり、マスコミなどではこうした低い支持率などを揶揄して森政権の事を「蜃気楼内閣」(森喜朗の音読み、シンキロウにかけた洒落)と呼ぶ事もあった。また、民主党鳩山由紀夫には「(支持率が)消費税(5%)並みになった。」と揶揄された。政権末期には一部新聞が一面トップで「退陣の公算」と報じたことが退陣の流れを導いたとも言われる(新聞辞令)。2001年4月26日、就任からちょうど1年で首相を退任した。後継総理総裁は自派閥出身の小泉純一郎になった。


首相在任中の活動

2000年10月30日、同年8月にシドニーオリンピック女子マラソンで優勝した高橋尚子に、日本女子選手初の金メダルを獲得し国民に深い感動と勇気を与えた功として国民栄誉賞を与えた。

アフリカ諸国や南アジア諸国に対し積極的な外交交渉を行い、国際連合内での発言力向上に貢献した。

IT革命を謳いインターネット博覧会(インパク)の開催などの振興策を推進した。

2001年4月、李登輝の訪日ビザ発給要請に対し、“一つの中国”論との齟齬を懸念した河野洋平外相が「発給を認めるなら辞任する」と激しく抵抗し、福田康夫官房長官も強く反対した。しかし“李は当時既に私人であり心臓病の治療という目的があったのでビザ発給を断る理由はない”という判断で訪日実現となった。

クリントン政権時の2000年10月、オルブライト国務長官(当時)訪朝前に、米政府が北朝鮮のテロ支援国指定解除を真剣に検討、解除に極めて近い状況だった際に、拉致問題等を理由に指定解除の阻止を図っていたことが分かっている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki