2000年11月21日、衆議院本会議において森内閣不信任決議案が野党から提出された。当時宏池会会長で自民党の次期総裁候補の一人と目されていた加藤紘一は、森不信任は国民の多数が支持すると考え、YKKの盟友、山崎拓とともに、それぞれ自派を率い党の方針に反して本会議を欠席した(いわゆる加藤の乱)。しかし宏池会で加藤に従った者は一部にとどまり、森首相退任には至らなかった。
2001年2月10日、ハワイ沖で日本の高校生の練習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事件」(えひめ丸沈没事故)が発生した。事件の一報が入ったとき森はゴルフ場におり、連絡はSPの携帯電話を通じて入った。それにより日本人が多数海に投げ込まれたことや、相手がアメリカ軍であることも分かっていたが、森は第三報まで1時間半プレーを続け、これが危機管理意識上問題とされた。当時国会でも採り上げられ、その詳細が議事録に残っている( ⇒第151回国会 予算委員会 第8号(平成13年2月19日)など)。
午前10時50分に第一報を受けたあと午後0時20分の第三報まで、3ホールを回ったとのことである。連絡は携帯電話を通して伝えられた。マスコミにこのことを問いただされた森が「プライベートだ」と答えたことで批判は拡大した。
当日プレーしていたゴルフ場(戸塚カントリー倶楽部)の会員権は知人から無償で借り受けて自分名義としており、このことも批判を増幅させた。
森の主張によると、えひめ丸事件の一報が入った時、その場を離れないように言われたのでゴルフ場で待機していたとのことである。この事件の報道で違う日に撮影された森のゴルフプレイ姿が繰り返し放送されたため悪印象が増幅した。
事故を起こしたアメリカ側はブッシュ大統領が「事故の責任は全てアメリカにある」と謝罪。マスコミはこれを異例の素早い対応と評価、日本の事後処理の印象を一層悪いものとした。
上記のいきさつにより任期を通して内閣支持率は低かった。任期の終わりごろには、遂に支持率が5.7%となり、マスコミなどではこうした低い支持率などを揶揄して森政権の事を「蜃気楼内閣」(森喜朗の音読み、シンキロウにかけた洒落)と呼ぶ事もあった。また、民主党の鳩山由紀夫には「(支持率が)消費税(5%)並みになった。」と揶揄された。政権末期には一部新聞が一面トップで「退陣の公算」と報じたことが退陣の流れを導いたとも言われる(新聞辞令)。2001年4月26日、就任からちょうど1年で首相を退任した。後継総理総裁は自派閥出身の小泉純一郎になった。
首相在任中の活動
2000年10月30日、同年8月にシドニーオリンピック女子マラソンで優勝した高橋尚子に、日本女子選手初の金メダルを獲得し国民に深い感動と勇気を与えた功として国民栄誉賞を与えた。
アフリカ諸国や南アジア諸国に対し積極的な外交交渉を行い、国際連合内での発言力向上に貢献した。
IT革命を謳いインターネット博覧会(インパク)の開催などの振興策を推進した。
2001年4月、李登輝の訪日ビザ発給要請に対し、“一つの中国”論との齟齬を懸念した河野洋平外相が「発給を認めるなら辞任する」と激しく抵抗し、福田康夫官房長官も強く反対した。しかし“李は当時既に私人であり心臓病の治療という目的があったのでビザ発給を断る理由はない”という判断で訪日実現となった。
クリントン政権時の2000年10月、オルブライト国務長官(当時)訪朝前に、米政府が北朝鮮のテロ支援国指定解除を真剣に検討、解除に極めて近い状況だった際に、拉致問題等を理由に指定解除の阻止を図っていたことが分かっている。
教育改革を掲げたが奉仕活動を義務化させる方針を盛り込む等物議を醸した。森の諮問機関である教育改革国民会議の議長であった三浦朱門の言動も度々物議を醸した。森自身が私学と太いパイプを持つ文教族の大ボス的存在であり義務教育廃止論者でもあることから様様な議論を呼んだ。
マスコミにより多くの発言が問題(失言)として報道され、首相時代には失言(「こりゃ失言失言」)が流行語となるほどであった。
1988年4月3日、自由民主党全国組織委員長時代、京都市でのパーティーで「大阪人は金儲けばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」と発言。
1995年5月10日、自民党幹事長時代、「村山首相は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、総理大臣公邸での内閣総理大臣村山富市との会話を漏洩した。この発言に飛びついた読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。これにより、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受ける。それにともない、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。
2000年1月13日、福井県敦賀市で行われた講演において「選挙運動で行くと農家の皆さんが家の中に入っちゃうんです。なんかエイズが来たように思われて…」と発言。2001年の国連エイズ総会への派遣を批判される原因となる。
2000年5月2日、イタリアを訪れた際に当時ローマで活躍していたサッカーの中田英寿らを招いて会食。「日本代表は、アウェーで韓国に勝ったことがないんだよ」と発言したが、すぐに中田から「え? ありますよ!」と強く訂正される。中田は森と2人での写真撮影を拒否したという。
2000年5月14日、NHK「日曜討論」において、当時存命中であり文教族の先輩として自らも指導を受けた坂田道太元衆議院議長について「亡くなられた坂田さん」と発言し、物故者扱いにして物議をかもした。
2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会でスピーチし、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」と発言(神の国発言)。NHKなどが大々的に報道して大きな波紋を呼んだ。