紀元前645年、国政の要であった管仲が亡くなると、国政を顧みなくなり放蕩に明け暮れるようになった。管仲が亡くなる時に引き立ててはいけないと言った佞臣たちをも登用し、国政は乱れた。桓公が病床に就くと、公子たちの後継者争いの中で息を引き取り、67日の間その遺体は放置されたままになり、その棺からウジが湧き出したという。斉はこの後もたびたび後継者争いが起こり、覇権は晋、楚へ移った。
桓公は、春秋五覇の最初の覇者であり、春秋五覇の中でもとりわけ光彩を放つ。春秋五覇の候補は他にもいるが晋の文公重耳と並んで「斉桓晋文」と称され、五覇から漏れることは無い。
桓公が家臣から諮問された時に「管夷吾(夷吾は管仲の名)に聞け。」とばかり答えるので家臣から「君主とは楽なものですね。全て管夷吾に任せておればいいのですから。」と言われると桓公は「管夷吾を得るまでは苦労したのだ。管夷吾を得てからは楽をしても良いではないか。」と答えたと言う。この逸話はまず作り話だろうが、それくらい管仲あっての桓公と捉えられていた事を示している。
「桓公は凡庸な人物で、桓公の業績は全て管仲の業績だ。」と言う意見がある。これは確かに事実であろうが、自分の命を狙った管仲をわだかまり無く最高権力の座につける桓公の度量は、それだけで十分天下の名君と言える。
先代:
公孫無知斉(姜斉)の君主
第16代:前685年 - 前643年次代:
斉侯無詭
カテゴリ: 斉の君主 | 春秋戦国時代の人物 | 紀元前643年没
更新日時:2008年6月17日(火)22:11
取得日時:2008/09/06 11:37