栄養学
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栄養士と養成施設

1924年(大正13年)、矩の栄養学校ができる。

1933年(昭和8年)、香川綾の家庭食養研究会ができ、1939年(昭和14年)に女子栄養学園となる。

1939年(昭和14年)、陸軍の糧友会が食糧学校を設立した[10]

1947年(昭和22年)に栄養士法ができ、上記の栄養学校、食糧学校、女子栄養学園で栄養学を学んだものに与えられていた栄養士という称号が公的なものとなった[10]

1962年、管理栄養士が制度となる。


主食論争

明治時代から食養会の関係者は玄米をすすめていた。当時の栄養学は、玄米に多い食物繊維は未消化で排泄されるので栄養吸収の効率が悪いと考えたが、真っ白に精白した米は栄養素が少なすぎるという低栄養が問題であり、当時多発したビタミンB1不足による脚気の予防のためにもその中間を提唱していた。

1918年(大正7年)、矩は新聞社を16社呼び、胚芽米をすすめ米のとぎ洗いも問題だと伝えた[11]。しかし、精米技術が追いつかず、胚芽米の推奨はやめてどちらかというと胚芽米を嫌っているようでもあった[12]

1921年(大正10年)、玄米をすすめてきた医師の二木謙三が玄米をすすめる内容の著書を発行している[13]

1922年(大正11年)、矩は七分搗き米をすすめる[14]

1927年から陸軍の糧友会は胚芽米を普及させようとしていった[15]。理由は、白米はビタミンBが少ないという栄養上の問題があり体力を奪い大和民族の発展を阻止するが、胚芽米は栄養があり味もよく消化がいいということである[15]

1928年、香川綾も胚芽米をすすめた[16]。同1928年(昭和3年)ごろ、陸軍は脚気予防のために胚芽米に精米できる精米機が登場したため、胚芽米を採用した[17]。正確に七分搗き米に精米できる精米機はまだなかった[17]

矩は、七分搗き米を普及するべく「標準米」として提唱している[18]。東京市は胚芽米の普及をすすめ、栄養研究所や栄養士と対立する[12]

1938年(昭和13年)、農相によって胚芽米でなく七分搗き米を奨励すべきだという発言が報道されたのに対し、糧友会は『胚芽米普及の真意義に就て』を書き、栄養がある七分搗き米を食べている人にまですすめるわけではないと弁明している[15]

1939年、農務省から米穀搗精等制限令[19]が出て、胚芽を含んだ七分搗き米が奨励された。

1941年(昭和16年)、玄米の普及の請願も出ていたが、厚生省、文部省、農林省の大臣が答弁し米は七分搗きが適当であり玄米は最適ではないとした[20]

1942年(昭和17年)以降、大政翼賛会では国民を玄米に復帰させるとして議題となり、時の首相であった東條英機が玄米を常食していることも伝わり世論は玄米に傾いた[20]伝染病研究所の研究者らが玄米食について研究し12月の「医界週報」での報告では、玄米食によって小食になったうえ下痢も減り仕事の耐久力が上がり、医療費は1/17に減ったが炊飯に要する燃料は増加したと伝えたので、栄養学者も認めざるをえなくなった[21]

1943年(昭和18年)、当初反対していた厚相も首相に従い玄米をすすめていった[22]

1945年(昭和20年)8月15日 玄米をすすめる「食生活指針[23]」ができた。


1975年(昭和50年)、謎の神経炎が発生する[24]

1976年、翌年、謎の神経炎がビタミンB1欠乏症である脚気だと分かる[25]。砂糖の多い清涼飲料水やインスタントラーメンといったビタミンの少ないジャンクフードばかりを食べるような食事によってビタミンが欠乏したことが分かった[26]。香川綾が再び胚芽米の普及にのりだす[27]


戦後

終戦直後には食料の生産供給の状態が悪く、飢餓や栄養失調も頻繁に起こっていた。

1946年には、アメリカから14万トンの小麦粉が送られた。またララ物資として、食料としては小麦粉や砂糖、粉ミルクや缶詰めといった救援物資が送られた。*1954年(昭和29年)には、農業貿易開発援助法(PL480:Public Law 480)によってアメリカの農産物による食糧援助が始まる。学校給食法ができる。

戦後は、厚生省が栄養改善運動をはじめる。おかずの多い食事や、食生活に小麦を使った食事や洋風の食事が普及していく。

日本食生活協会がアメリカから資金援助を受け、キッチンカー(栄養指導車)を走らせ、栄養士が欧米風の食事の実演をした。

1956年(昭和31年)には8台のキッチンカーがあった[28]。学校給食はパンと牛乳となり、フライパン運動や、栄養三色運動[29]によって、米を大量に食べる食生活から、以降急激に小麦を使った食品や畜産食品やおかずの多い食生活が普及していった[30]


食育への流れ

しかし、このようなアメリカ化された食生活はアメリカ自身も困っていた食生活をそのまま取り入れてしまったものである[31]。1983年には、食生活の方向転換が提案され「私達の望ましい食生活-日本型食生活のあり方を求めて」では、米や野菜を中心として、動物性脂肪や砂糖、塩分のとりすぎを避けるという日本型食生活が提案された。1985年(昭和60年)には、食生活による生活習慣病の増加がわかってきたので、厚生省が「健康づくりのための食生活指針[32][33]」を策定する。

1993年、厚生省によって食事の教育が重要であるという提起として『食育時代の食を考える』が出版され、冒頭は、厚生大臣であった小泉純一郎が厚生省としては食が一番大事じゃないかと述べていたというところからはじまる[34]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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