1875年(明治8年)7月31日、現・兵庫県神崎郡福崎町辻川に松岡操、たけの6男として生まれた。幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を乱読。13歳のときに長男の鼎に引き取られ茨城県の利根川べりに住む。この際に隣家の小川家の蔵書を乱読、また利根川の風物に強い印象を受ける。16才のときに東京に住んでいた兄、井上通秦と同居、19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎える。
井上通秦の紹介により森鴎外と親交を持ち、『しらがみ草紙』に作品を投稿、また通秦の世話で景園流の歌人に入門。第一高等中学校在学中には『文学界』『国民之友』『帝国文学』などに投稿。1897年には田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版。ロマン的で純情な作風であった。官界に出た後も、花袋、独歩、藤村、有明など文学者との交流は続いた。
大学では農政学を学び、農商務省のエリート官僚となった後、講演旅行などで地方の実情に触れるうちに次第に民族的なものへの関心を深めてゆく。岩手県遠野や宮崎県椎葉への旅の後、郷土会をはじめ、雑誌「郷土研究」を創刊。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。
『蝸牛考』での「方言周圏論」、『郷土生活研究法』における「重出立証法」などで日本民族学の理論や方法論が提示されるなど、昭和初期は日本民族学の確立の時代であった。一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み民族採集の重要性と方法が示された。以降、柳田の活動は日本人は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に「内省の学」として位置づけられてきた。
國男は『郷土生活の研究法』(1935年)のなかで「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べている。
ここでは、文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決してみえてこないという認識が示されている。「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険がともなうのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じている。
和歌森太郎の『柳田国男と歴史学』(1975年)によれば、國男の問題意識と関心は常に歴史学と歴史教育にあったことが記されている。本書では、國男が長野県東筑摩郡教育会で「青年と学問」と題して講演した際に「自分たちの一団が今熱中している学問は、目的においては、多くの歴史家と同じ。ただ方法だけが少し新しいのである」と述べたことが紹介されている。そして「日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」としている。たとえば、ヨーロッパでは千年以上のキリスト教文明と民族大移動、そしてまた近代以降の産業革命の進展のためフォークロア(民間伝承、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡がのこっているというのである。
言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料としてゆたかに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということができるのである。
代表作
筑摩書房版の全集は4回刊行されている。『定本柳田國男集』が没する寸前に始まり全31巻別巻5(1.2は朝日新聞論説集、3は故郷七十年ほか、4は炭焼日記ほか、5は総索引)を刊行、生誕百年を期に新装版が資料編5巻(下記参照)追加し再刊。1989年には『ちくま文庫』全32巻が刊行され反響を呼んだ(3冊程購入可能)、1997年より『柳田國男全集』が書簡集2巻を含んだ全36巻別巻2(年譜・総索引)を刊行中だが10年余りを経て、残り5巻で足踏み状態につき、完結までなお相当に時間がかかる。
『遠野物語』
東北地方の伝承を記録した、柳田民俗学の出発点(話者:佐々木喜善)。
『蝸牛考』
各地のカタツムリの名称を比較検討することにより、日本語が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにした考察。これは文化が中心から周辺へと伝播する過程で、周辺にかえって古い文化が残っていることを示した文化周圏論である。國男自身は晩年になって『蝸牛考』について「あれはどうも駄目なようです」と述懐し、文化周圏論に懐疑的になっていたといわれる。
『桃太郎の誕生』
昔話の解析を通して、日本社会の断面図を描こうとしたものだが、この手法は民俗・民族学、文化人類学に応用され多くの後継者を生み出した(例:中野美代子の『孫悟空の誕生』)。
『海上の道』
日本文化が沖縄諸島から南島づたいに伝播してきたという考察。沖縄には稲作文化がなかったことから発表当初は否定されたが、近年の考古学的・言語学的調査などにより南方からの影響もそれなりにはあったとされる。ただ、日本列島の文化を後に構成した要素の多くはやはりユーラシア大陸からもたらされたと近年では考えられている。また國男の「海上の道」論の背景には植民地問題もあったと指摘する研究もある(村井紀『南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義』)。
『「イタカ」及び「サンカ」』
イタコと山窩の考察。
日本民俗学の祖としての功績は非常に高く評価できる反面、彼自身の性格・手法によって切り捨てられた民俗があることも指摘されている(例えば性に関する民俗は言及を避けた)。