熊本県阿蘇町(現阿蘇市)の農家の長男として生まれる。父は第2次大戦中、満州で旧日本軍の憲兵をしていたが、帰国後は定職を持たず林業ブローカーのような仕事をしていた。父は非常に厳格な人だったが、気に入らないことがあると怒鳴りちらす気性の荒いところもあり、周囲でも怖がられる存在だったという[1]。
中学卒業後熊本県立済々黌高等学校に進学し親元を離れ、下宿生活を送る。空手部に入り精を出した。高校2年の修学旅行で東京を訪れた際には、単身で赤尾敏(大日本愛国党元総裁)を訪ね、活動への参加を志願している。結果は断られたものの、右翼思想への傾倒は松岡にとって大きな転機になったという[1]。
防衛大学校を目指すが失敗し、2浪ののち鳥取大学農学部林学科に進学する。卒業後、1969年、いわゆるキャリア技官(国家公務員上級甲種・林学)として農林水産省入省。大臣官房企画課、天塩営林署長、国土庁(当時)地方振興局山村豪雪地帯振興課長補佐などを務める。1988年、林野庁林政部林政課広報官を最後に退官し、地元熊本に戻った。
1990年の第39回衆議院議員総選挙に旧熊本1区から無所属で立候補。当初は泡沫候補とさえ見られていたが、最下位ながらも北口博、松野頼三らを下し初当選、以降連続6回当選している。松岡は一期目に、小泉純一郎(後に内閣総理大臣)や石原慎太郎(後に東京都知事)と同調して小選挙区導入に猛反対し、同じ三塚派所属の一年生議員らと共に党中枢と敵対した。他にもコメの自由化に反対して国会前で座り込みをしたり、1994年11月の熊本市長選挙で魚住汎英と乱闘を起こすなど、行動的な議員として知られるようになる。地元と国とのパイプ役として、地元からの評判も良かった。しかし一方、選挙で対立候補を支援した建設会社に対しては、その後公共事業の発注を行わせないようにするなど厳しい一面もあったようである。
1995年8月8日、村山改造内閣で農林水産政務次官(翌年1月11日まで)、1999年10月29日、衆議院農林水産委員長(翌年6月2日まで)、2000年12月6日、第2次森改造内閣で農林水産総括政務次官となる。2001年1月6日、初代農林水産副大臣となり、WTO交渉等に精力的に取り組む(同年4月26日まで)。
亀井グループを経て、1998年に江藤・亀井派結成に参加。小泉改革に反対する立場だったが一転、衆議院予算委員会理事、衆議院郵政民営化に関する特別委員会理事を務め、小泉を積極支持する姿勢を見せて、郵政国会を機に長年仕えてきた亀井静香・小林興起・荒井広幸・平沼赳夫ら旧亀井グループと事実上訣別した。他方、これまでコメの輸入自由化・FTAへの頑強なまでの反対姿勢を一転させたことは、従来の支持基盤だった農家からの激しい反発を招く。
2006年9月26日、安倍内閣で農林水産大臣に就任する。その後、事務所費問題、光熱水費問題、献金問題等数々の疑惑が浮上し、大きな批判を受ける事となる。安倍晋三は自身の内閣の威信を貫くため松岡をかばい続けたが、マスコミは連日のように彼の不祥事を報道した。本人も真相を話したいと語っていたようだが、党の方針としてそれも許されず、このことが彼を精神的に追い詰めたとされている。
2007年5月28日、衆議院議員宿舎(新赤坂宿舎)にて首つり自殺を図っている所を警護官らが発見し、救急車で病院に運ばれたが、既に心肺停止状態だった。午後2時死去(62歳)。日本中に大きな衝撃を与えた松岡の自殺は、安倍内閣への支持率を低下させる大きな打撃となった。尚、彼が自殺にまで到った直接の動機としては、検察が秘密裏に捜査中だった六代目山口組最高幹部橋本弘文との関係が取りざたされている[2]。
2006年、日本国外の日本食レストランに対する認証制度の導入を発案した。2006年11月には、「海外日本食レストランへの信頼度を高め、農林水産物の輸出促進を図るとともに、日本の正しい食文化の普及や我が国食品産業の海外進出を後押しすること等を目的」[3]に、農林水産省「海外における日本食レストランの認証制度を創設するための有識者会議」を立ち上げた。
農林水産大臣就任後、外遊時に現地の日本食レストランで出された料理が日本食とは名ばかりの料理だったため、衝撃を受けた松岡が認証制度を発案し、松岡の肝いりで上記会議が設置された。
松岡自身は、日本食の認証制度を通じ、日本食用の食材として国内農産物の輸出増加を狙う戦略を描いているとされる。同会議の設置に際し、松岡は認証制度の導入について、海外在留邦人の日本食への理解の向上、日本文化への関心の向上、農林水産物や加工食品の輸出促進、食品産業の国外進出推進、日本への外国人観光客の増加、といった利点が期待できると指摘している[4]。