松前氏は、もと蠣崎氏、さらにその前は武田氏の出で、戦国時代に武田信廣が現在の渡島半島の南部に支配を確立した。豊臣秀吉に臣従し、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められた。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが、五代征夷大将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になる。さらに、享保4年(1719年)より1万石格の柳間詰めの大名となる。
当時の北海道では米がとれなかったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格にすぎない。慶長9年(1604年)に家康から松前慶廣に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、しだいに取り締まりが厳しくなった。
松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であったが、鰊が不漁になったため、蝦夷地への出稼ぎが広まった。城下の松前は天保4年(1833年)までに人口一万人を超える都市となり、繁栄した。
藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、寛文9年(1669年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを挫折させた。
18世紀前半から、松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようになり、場所請負制が広まった。18世紀後半には藩主の直営地も場所請負となった。請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させた。これより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られた。商人の経営によって、鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮、鷹などの希少特産物を圧するようになった。
生活物資の中心となるコメは、対岸の弘前藩から独占的な供給を受ける取り決めが結ばれていたが、1782年から深刻化した天明の大飢饉の期間は輸送が途絶、大坂からの回送船によるコメの輸送が行れ、益々西日本側との結びつきを深めてゆく。
漁場の拡大にともない、日本人は東蝦夷地にも入り込んだが、その地のアイヌは自立的で、藩の支配は強くなかった。この頃西でも東でも商人によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていた。請負商人によるアイヌ首長毒殺に対して、東蝦夷では寛政元年(1789年)にクナシリ・メナシの戦いが起こった。
18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を無視し、秘密にした。ロシアの南下を知った幕府は、天明5年(1785年)から調査の人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)藩主松前章廣から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち1月16日に東蝦夷地の浦川から知床までを7年間上知することを決め、8月12日には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5千石を与え、各年に若干の金を給付することとした。
享和2年(1802年)5月24日に7年間に及ぶ上知の期間を迎えたが、蝦夷地の返還は行われなかった。文化4年(1807年)2月22日に西蝦夷地も取り上げられ、松前藩は陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。なお、この際に藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた(一説には密貿易との関係が言われているが、当時の記録には道広が遊女を囲ったとする風聞に関する記事が出ており、放蕩説が有力である)。
文政4年(1821年)12月7日に、幕府の政策転換により松前藩は蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させた。日米和親条約によって箱館が開港されると、安政2年(1855年)2月22日に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになった。藩にはかわりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根にあわせて3万石が与えられ、出羽国村山郡尾花沢1万4千石を込高として預かり地になった。また、手当金として年1万8千両が支給された。元治元年(1864年)に松前崇廣が老中になると、乙部から熊石まで8ケ村が松前藩に戻された。しかし、手当金700両が削減された。領土の上知や箱館の繁栄のせいで、松前藩の経済状態は、藩士も城下の民も苦しいものになった。
戊辰戦争の中でも、東北戦争の時点では奥羽越列藩同盟に参加していたが、正議隊(正義隊)という勤王派が藩政を掌握して新政府の側についた。新築の館城に移って館藩として箱館戦争で旧幕府軍と戦った。明治2年(1869年)6月24日14代藩主松前修広(ながひろ)は版籍奉還を願い出て許され館藩知事を仰せ付けられた。同年、北海道11国86郡が置かれている。
明治4年(1871年)7月14日 廃藩置県により館藩の旧領には館県が置かれた。館県の範囲は、渡島国に属する爾志郡・檜山郡・津軽郡・福島郡の4郡であったが、同年9月 館県は道外の弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県と合併、弘前県(後の青森県)の一部となり消滅。