警視庁警備部は8個機動隊を動員し、1月18日午前7時頃医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始、投石・火炎瓶などによる学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始された。しかし強固なバリケードと学生の予想以上の抵抗に機動隊は苦戦を強いられ、午後5時40分警備本部は作業中止を命令。18日の作業は終了した。
1月19日午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開された。2日目も学生の激しい抵抗があったが午後3時50分、突入した隊員が三階大講堂を制圧し午後5時46分屋上で最後まで抵抗していた学生90人を検挙。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。
紛争によって荒廃した講堂は20年間に渡り、法学部・文学部の物置として使われていた。当時の講堂内に研究室を構えていたり、資料を保管していた教授や研究者には、全共闘関係者の破壊行動によって長年の研究成果が全て焼失した者もいた。
1989年に改修工事が完了し、?落としはスティーヴン・ホーキングの来日公演であった。それ以後、卒業式などの全学的行事に使われるほか、公開講座なども行われている。
大学側
加藤一郎 - 東京大学総長代行。のち総長に就任
向坊隆 - 工学部長、執行部員。のち総長に就任
平野龍一 - 法学部長、執行部員。のち総長に就任
藤木英雄 - 法学部教授、執行部員。
林健太郎 - 文学部長、執行部員。1968年11月4日から11月12日まで全共闘に監禁され事件となった(林健太郎監禁事件)。のち総長に就任
学生側
山本義隆 - 東大全学共闘会議議長。
今井澄 - 東大全学共闘会議副議長・安田講堂防衛隊長。のち参議院議員(社会党→民主党)
警察側
後藤田正晴 - 警察庁次長。のち警察庁長官、内閣官房長官、副総理兼法務大臣
秦野章 - 最高警備本部長(最高責任者)、警視総監。のち法務大臣
下稲葉耕吉 - 最高警備本部幕僚長兼総合警備本部長(現場指揮担当)、警視庁警備部長、警視長。のち法務大臣
佐々淳行 - 総合警備本部幕僚長(現場指揮担当)、警視庁警備部警備第一課長、警視正。のちあさま山荘事件の警備も担当。のち初代内閣安全保障室長
楢島文穂 - 現場警備本部長(現場指揮担当)、本富士警察署長、警視。
細井為行 - 分隊長。のち弁護士。
警察側の記録によると、この日の封鎖解除で検挙された学生633人のうち、東大生はわずか38人であったという。ただしこれについては、全共闘側の関係者(今井澄、島泰三)から異論が出ており、島は公判で起訴された東大関係者(54名)の数と、全体の逮捕者と起訴された者の比率等から80?100名程度の東大関係者が東大構内に立て籠もったと推定している。更に、秩父宮ラグビー場における七学部学生集会粉砕闘争で駒場共闘の中心メンバーが100人以上逮捕されていることも考慮しなければならない。
東大全共闘の一部と革マル派は封鎖解除前日の17日「兵力温存」を理由に大学構内から脱出、当日抵抗していたのは他セクトと地方を含む他大学からの応援部隊が中心であった。 革マル派は、後日他セクトから「日和見主義」などの批判を受け、他セクト(特に中核派)との対立を深める結果となった。
なお、学生によって、丸山眞男をはじめとする碩学が吊し上げられたり、明治以来の貴重な原書が燃やされてストーブ代わりになるなどの暴挙が行われた。
参考文献
佐々淳行著『東大落城?安田講堂攻防七十二時間』文藝春秋[文春文庫]
島泰三著『安田講堂 1968-1969』中央公論新社[中公新書]
関連項目
東大紛争(東大闘争)
安田講堂
カテゴリ: 1969年 | 学生運動 | 戦後の事件 | 東京大学
更新日時:2008年9月28日(日)14:25
取得日時:2008/10/10 17:56