東京都
ウラ写メ交換掲示板
■18歳以上「入口」■

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


鎌倉時代から戦国時代まで

中世には武蔵七党と呼ばれる武士団が興り、関東に進出した畿内河内源氏の家人となった。源平合戦では豊島氏、足立氏、葛西氏らが活躍している。12世紀には豊島郡江戸郷の名が見え、この地を本拠とする江戸氏も興った。14世紀には、新田義貞鎌倉幕府軍を破った分倍河原の戦いが知られる。

戦国時代には扇ヶ谷上杉氏の家宰であった太田氏が台頭し、江戸城を築いた太田道灌が武蔵国の掌握に力を注いだが暗殺され、小田原城を拠点とする後北条氏が武蔵国に進出する。北条氏政の弟・北条氏照八王子城を築き、西方の甲斐国武田氏に備えた。その後北条氏も、豊臣秀吉小田原攻めによって滅んだ。


江戸時代徳川家康

後北条氏が滅んだ後、東海地方から甲信を支配していた徳川家康が、関東地方(武蔵国を含むほとんど全部)への領地替えとなり、駿府城(旧静岡市)から江戸城に入る。やがて関ヶ原の戦いに勝利した家康は、1603年3月24日旧暦2月12日)に江戸幕府を開き、江戸時代が到来する。ここに、首都京都でありながら、江戸は行政庁所在地となる。幕府を開いた家康は進んで鷹狩りをやり、白金御殿などの御殿も造られた。江戸は人口の急増とともに町が拡大していき、18世紀初頭には人口100万人を超える世界有数の大都市(一説によると当時世界一)へと発展を遂げていた。5代将軍徳川綱吉の時代には現在の23区内唯一の喜多見藩があったが、数年で消滅に至ってしまう。


明治維新から第二次世界大戦まで

(※東京府東京市の項も参照。)

1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の徳川慶喜による大政奉還1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)の王政復古クーデターによって江戸幕府が崩壊し、同年5月3日(慶応4年(明治元年)旧暦4月11日)の江戸城開城によって江戸は新政府の支配下に入った。6月30日旧暦5月11日)、新政府は江戸府を設置し、9月3日旧暦7月17日)に江戸が東亰(後に東京)と改称されると、江戸府も東京府と改称された。1869年明治天皇皇居(旧の江戸城)に入ると、名実共に、東京は近代日本の首都となった(首都を京都から東京へ移す遷都令はなく、東京を首都とする法的根拠もない、という意見もある)。

全国から新政府に仕える人々が集まり、多くは皇居周辺(後世の山手線内側)に住んだ。これが山の手族の起源である。また、築地には外国人居留地が設けられ、銀座には西洋風の煉瓦街が作られて、文明開化が進んだ。1871年8月29日旧暦7月14日)の廃藩置県後、同年12月25日旧暦11月14日)に東京府は隣接する品川県および小菅県などを合併して、現在の特別区(23区)部のうち世田谷区西部を除いた区域を管轄する東京府が発足し、東京は府庁所在地となった(ただし、実際に管轄区域が確定したのは翌1872年)。そして、1889年には市制施行で東京市が発足した。

大正期に入ると、東京市への人口流入は更に進み、1920年の人口は370万人になったが、1923年9月1日には関東大震災に襲われ、特に下町が大打撃を受け、一時、面積が半分程度の大阪市の人口が東京市を抜くことにもなった。近衛文麿政権に入る前までは、大阪が日本の経済産業文化芸術の中心的な地位にあったが、近衛文麿以後の政権が戦時体制を敷いて、経済・産業・文化・芸術・教育、その他あらゆる分野の中枢を東京に集めた。

第二次世界大戦中の1943年7月1日には、東京市と東京府は廃止され、東京都が設置された。初代東京都長官は、内務省出身の大達茂雄であった。そして、第二次世界大戦末期の1945年3月10日には、東京大空襲によって市街地の大半が焼け野原と化した。小笠原諸島の硫黄島で地上戦が行われ、日米両軍に多大な犠牲を払った戦いであった。


ウラ写メ交換掲示板
■18歳以上「入口」■

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:195 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen