東京箱根間往復大学駅伝競走
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1971年第47回大会?2002年第78回大会

以下の2種類の方法で選んだ合計15チーム
前年度の総合順位9位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加

他の出場校については当該同年度秋季(第68回大会から10月下旬)に行われる予選会に参加し、その予選会上位6チーム

※第50、60、70回の記念大会時は特例として20チームで実施。増加分の決定方法は年度により異なるので後述の沿革を参照の事。


2003年第79回大会以後

以下の4種類の方法で選んだ合計20チームとする事に変更
前年度の総合順位10位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加

予選会タイムの上位6チーム

予選会タイムの7位以降については、予選会タイムに関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)のポイント(順位・エントリー数をタイムに換算)を加算した上での上位3チーム(インカレポイントの詳細計算については外部リンクなどを参照。また後述の駅伝偏重とインカレポイントも参照)

なお、以上の本大会出場校以外のチームから選ばれた関東学連選抜1チームが参加する(第80回の記念大会は関東学連選抜に代わり日本学連選抜で参加した)。また学連選抜チームは当初はオープン参加扱いだったために個人記録の公式記録しかつけられず総合順位の公式記録はつけられなかったが、2007年の第83回大会からは総合順位も公式に認められることになった。また学連選抜チームがシード権を獲得出来る総合順位で10位以内に入った場合、翌年のシード枠が1つ減り予選会からの出場枠が1つ増える

2009年の第85回大会は出場校を3校増やす。これは第85回記念大会に伴う措置で、シード校9校と予選会から選考した13校に関東学連選抜チームを加えた23チームで争われる。予選会選考方式は成績上位10校に自動的に出場権を与え、残り3校についてはインカレポイントを加味して選考する[1][2]
尚、この措置は2009年の第85回記念大会に限るもので、86回大会以後は20校に戻すこととしている。


備考


予選会について

予選競走に出るには、その年の1月から予選会応募締め切り日までの公式記録で10000m走35分以内か5000m走17分以内のどちらかを作った選手を補欠も含めて10人以上揃えなければならない(以前はこのような出場資格はなかったが、参加校の増加で予選会の段階である程度出場校を絞り込む必要が出てきたことからこのような資格が設けられた)。

一般論としては予選に出るということは本大会の約2ヵ月半前に一度チームや個人としての体調やコンディションのピークを構築(ピーキング)する必要がある為、チームとして年間を通しての調整面でシード校に比べて不利になる。


シード校について

シード(予選免除権。前年の本選で総合10位以内入賞が条件)校の参加は希望制(日本国内での各学連主催の駅伝大会共通)であるが、不参加チームは未だ発生していない(出雲駅伝では発生例あり)。


沿革

1920年 第1回大会として2月中旬に実施。明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京高等師範学校の4校が出場。

第一回開催に当たって、東京帝国大学や中央大学、法政大学、立教大学、日本大学、東京農業大学、東洋大学、専修大学など多くの大学・旧制専門学校・師範学校などに対して参加を呼びかけるが10人の選手を出場させる状況にある学校が少なく、最終的に第1回はこの4校となった。


1921年 第2回大会に東京農業大学、法政大学、中央大学が初出場。明治大学が初優勝。

1922年 第3回大会に東大農学部実科、日本歯科大学、日本大学が初出場。早稲田大学が初優勝。

1925年 第6回大会の後日、日本大学が3区走者をエントリー選手ではない選手を出したことが発覚、順位成績取消は免れたものの、翌年の大会参加を辞退。

1926年 第7回大会で中央大学が初優勝。

1927年 第8回大会は大正天皇崩御の影響で初めて4月に開催。そのため参加校は5校のみとなった。

1928年 第9回大会に関西大学を特別招待。

1931年 第12回大会に再び関西大学を招待。

1932年 第13回大会に引き続き関西大学を招待。慶應義塾大学が初優勝。

1933年 第14回大会に東洋大学、拓殖大学が初出場。

1934年 第15回大会に専修大学、立教大学が初出場。

1935年 第16回大会で日本大学が初優勝。

1936年 第17回大会に横浜専門学校が初出場。

1937年 日本大学が戦前初の3連覇をし当時の大会規約により優勝旗が授与された(大戦により混乱で紛失し竿だけが大学内に保管されている)。日本大学は翌1938年も優勝し、戦前唯一の4連覇を達成している。

1938年 第19回大会で2着の明治大学が6区選手の資格疑義により失格となり、以下順位が繰り上がる。失格の理由は、当該選手が夜間部に在籍する学生で二重登録に当たるというもの。

1939年 第20回大会で専修大学が初優勝。

1941年 第二次世界大戦の激化により東海道・箱根路の使用が禁止され大会中止。代替駅伝として明治神宮水泳場前-青梅熊野神社間往復駅伝を実施(歴代大会には含めない)。

1942年 戦時命令により日本学連が解体する。

1943年 戦時中により従来の東京-箱根間大学駅伝に代わり靖国神社-箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会を第22回大会として実施。青山学院大学が初出場。

1944年 戦況激化により再び箱根駅伝は以後3年間中断。

1947年 駅伝大会を復活し、第23回大会として開催。神奈川師範学校が初出場。読売新聞社が共催に入るが「学生の大会を私企業が催すことは好ましくない」とのGHQからの指導があり、後援となる。

1948年 同年の大会からスタート・ゴールを当時の銀座の読売新聞社前(現在のプランタン)とした。

1949年 第25回大会で史上初の途中棄権(神奈川師範学校:現在の横浜国立大学)。日本体育専門学校が初出場(現在の日体大、以降現在まで連続出場)。中央大学の5区の選手がゴール手前で倒れこみ、関係者がゴールまで引っ張り込んだが失格とならなかった。この件について中央大学と審判長にルール違反ではないかとの非難が殺到する。報知新聞社が後援につく。

1950年 前年4月に新制大学が発足し、参加チームも再編の影響をうけ新しい校名で参加(神奈川師範学校→横浜国立大学、文理科大学・東京体育専門学校→東京教育大学、日本体育専門学校→日本体育大学、横浜専門学校→神奈川大学)。

1951年 駅伝有害論の影響により慶應義塾大学が大会参加を取りやめを決定(不参加に因る選手数の影響もあり、慶應義塾大学は以後約10年間出場せず)。

1952年 第28回大会に成蹊大学が初出場。

1953年 NHKラジオによる全国放送が開始。

1954年 第30回大会に横浜市立大学が初出場。

1955年 同年11月に初めての予選会(第10回関東学生10マイル兼第32回箱根駅伝予選会)を実施。シード校制度未導入の為、予選参加19校の中から上位15校が本大会に出場。また同年より交通事情を考慮し期日を新春2日、3日に変更。

1956年 第32回大会に東京学芸大学が初出場。

1957年 第33回大会からシード権制度を初めて適用。前大会の上位10校を予選会を免除して参加可能とする。国士舘大学が初出場。同じく予選会を突破していた順天堂大学が本大会でチーム編成が不能となった為、神奈川大学が繰り上がりで出場。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki