東ローマ帝国
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宗教論争

東ローマ帝国では単性論聖像破壊運動静寂主義論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったためギリシア人の一般民衆でも『聖書』を読むことができたということの証左でもある。『新約聖書』は原典がギリシア語コイネー)であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していた。また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのである。

この宗教論争に関しては、一般民衆がラテン語の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができたカトリック教会との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。


法律

ユスティニアヌス1世によって古代ローマ時代の法律の集大成である『ローマ法大全』が編纂され、その後もローマ法が幾多の改訂を経ながらも用いられた。特に重要な改訂は、8世紀の皇帝レオーン3世による『エクロゲー法典』発布、9世紀後半のバシレイオス1世による『ローマ法大全』のギリシア語による手引書『プロキロン』(法律便覧)、『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、そしてバシレイオス1世の息子レオーン6世による『ローマ法大全』のギリシア語改訂版である『バシリカ法典 ( ⇒Basilika) 』(帝国法)編纂である。

この『ローマ法大全』は西欧諸国の法律、特に民法にも多大な影響を与え、その影響は遠く日本にまで及んでいる。また、ブルガリアセルビアロシアなどの正教会諸国では帝国からの自立後も『プロキロン』のスラヴ語訳を用いた。


経済

東ローマでは、西欧とは異なり古代以来の貨幣経済制度が機能し続けた。帝国発行のノミスマ金貨は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した(ブルガリアのように、地方によっては税が物納だったこともある)。特に首都コンスタンティノポリスでは、国内の産業は一部を除き、業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、国営工場で独占的に製造された織物や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「世界の富の三分の二が集まるところ」と言われるほど繁栄した。

しかし、12世紀以降は北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行った北イタリア諸都市への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどった。

主要産業の農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、あまり技術の進歩がなかった。それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった[14]。しかしながら、ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。


用語の表記方法について

日本国内で出版されている東ローマ帝国史の専門書では、同じ人名・地名・官職・爵位の表記が本によって異なることがある。主に東海大学教授の尚樹啓太郎の著作のように、実際の東ローマ帝国時代の発音に近い、中世ギリシャ語形を用いている例も見られる。もっとも中世ギリシャ語といえども何百年もの帝国史の中で変化しているものであることや、一般人の感覚とかけ離れていることなどから他の研究者から異論も多く、論争中である。

このため国内で出版されている専門書では同じ人名・地名・官職・爵位などの固有名詞にいくつもの読み方がある(他に英語形やラテン語形を使用している場合もある)。今現在、国内のビザンツ研究者において統一された表記法があるわけではなく、個々の思想信条や学派・学閥によるものであるので、注意が必要である。

ウィキペディア内での表記についてはWikipedia:ウィキプロジェクト 東ローマ帝国史の用語表記を参照


脚註^ ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」
^ カール大帝以前は、西欧諸国の王やローマ教皇は名目上ではコンスタンティノポリスの皇帝の臣下ということになっていた。
^ 日本史でいうと古墳時代から室町時代に相当する。
^ ただし、これによって西ローマ側の疲弊は進んだ。
^ これより正教会が誕生する。なお、最終的に東西教会の分裂が起きたのは1054年
^ この要請にこたえて実施された軍事行動が第1回十字軍である。
^ 小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国など。
^ ロシア帝国。もっともロシアではキプチャク・ハン国のハンも東ローマ皇帝も「ツァーリ」と呼んでおり、キリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない。
^ 帝位継承法のようなものはなく、「元老院・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。
^ 逆に近代のギリシアでは、その民族主義的思想から、「帝国民の大半がギリシア人であり、中世の東ローマ帝国はギリシア人国家だった」という主張がされたこともあった。メガリ・イデアも参照のこと。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki