東ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であり、7世紀以降はギリシア語が公用語であったが、12世紀までの東ローマ帝国はセルビア人・ブルガリア人といったスラヴ諸民族やアルメニア人などを支配する多民族国家であった。ギリシア人は国民全体の3割ほどだったとする研究者もいる[9] 。
なお、帝国の住民はカラカラ帝の「アントニヌス勅令」以降、ローマ帝国内の全自由民はローマ市民権を持っていたため、ギリシア語の話者でもアルメニア系でもスラブ系でも、彼らは自らを「ローマ人(Ρωμα?οι (R?maioi))」と称していた。東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである[10]。特にアルメニア人は帝国の支配層にかなり多数の人材を輩出し、コンスタンティノポリス総主教や帝国軍総司令官、さらには皇帝になった者までいる。7世紀のヘラクレイオス王朝や、9?11世紀の黄金時代を現出したマケドニア王朝はアルメニア系の王朝である[11]。
もちろんローマ市民権を持っていると言っても、市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は古代末期には既に形骸化していた[12]。
詳細はビザンティン文化を参照
東ローマ帝国は、古代ギリシア・ヘレニズム・古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化(ビザンティン文化)を発展させた。
詳細は正教会を参照
帝国の国教であった正教会はセルビア・ブルガリア・ロシアといった東欧の国々に広まり、今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。
詳細は皇帝教皇主義を参照
東ローマ帝国の祭政一致体制を指して「皇帝教皇主義(チェザロパピズモ)」と呼ぶことがあるが、これには大きな語弊がある。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり、コンスタンティノポリス総主教等の任免権を有し、教義について命令を発することもできた。
しかし、教義の最終決定権はあくまでも教会会議にあり、ローマ教皇のように一方的に皇帝の側から教義を決定出来た訳ではない。実際、9世紀の皇帝バシレイオス1世が発布した法律書『エパナゴゲー』では、国家と教会は統一体であるが、皇帝と総主教の権力は並立し、皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、とされていた。また皇帝の教義に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばあった。
東ローマ帝国では単性論・聖像破壊運動・静寂主義論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったためギリシア人の一般民衆でも『聖書』を読むことができたということの証左でもある。『新約聖書』は原典がギリシア語(コイネー)であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していた。また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのである。
この宗教論争に関しては、一般民衆がラテン語の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができたカトリック教会との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。
ユスティニアヌス1世によって古代ローマ時代の法律の集大成である『ローマ法大全』が編纂され、その後もローマ法が幾多の改訂を経ながらも用いられた。特に重要な改訂は、8世紀の皇帝レオーン3世による『エクロゲー法典』発布、9世紀後半のバシレイオス1世による『ローマ法大全』のギリシア語による手引書『プロキロン』(法律便覧)、『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、そしてバシレイオス1世の息子レオーン6世による『ローマ法大全』のギリシア語改訂版である『バシリカ法典 ( ⇒Basilika) 』(帝国法)編纂である。
この『ローマ法大全』は西欧諸国の法律、特に民法にも多大な影響を与え、その影響は遠く日本にまで及んでいる。また、ブルガリア・セルビア・ロシアなどの正教会諸国では帝国からの自立後も『プロキロン』のスラヴ語訳を用いた。
東ローマでは、西欧とは異なり古代以来の貨幣経済制度が機能し続けた。帝国発行のノミスマ金貨は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した(ブルガリアのように、地方によっては税が物納だったこともある)。特に首都コンスタンティノポリスでは、国内の産業は一部を除き、業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、国営工場で独占的に製造された絹織物や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「世界の富の三分の二が集まるところ」と言われるほど繁栄した。
しかし、12世紀以降は北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行った北イタリア諸都市への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどった。