総統職を退いた後は台湾独立の立場を明確にした。「中華民国は国際社会で既に存在しておらず、台湾は速やかに正名を定めるべき」との台湾正名運動を展開し、2001年7月には国民党内の本土派と台湾独立派活動家と共に「台湾団結連盟」を結成した。形式上では既に政界を引退しているものの、独立運動の精神的な指導者と目されるようになる。このため同年9月21日に国民党中央考核紀律委員会により、反党行為を理由に党籍剥奪の処分を受けた。国民党を離れたため、その後は台湾独立派と見られる民進党と関係を深めていく。2003年9月には「もはや中華民国は存在しない」と発言して台湾独立への意思を鮮明にした。2004年の総統選挙では、選挙運動中の同年2月28日、台湾島の南北約500kmを約200万人の市民が手をつないで「人間の鎖」を形成する台湾独立デモを主催するなど、民進党候補の陳水扁を側面支援した。
2007年1月には、メディアのインタビューを受けた際に、“私は台湾独立とは一度も言ったことがない”と発言して、転向かとメディアに騒がれる出来事もあったが、インタビュー本文には「台湾は既に独立した国家だから、いまさら独立する必要はない。民進党は政治利用に独立を持ち出すのは控えるべき」と発言したことが明記されており[12]、メディアの歪曲報道とされている。
2008年の総統選挙ではなかなか民進党の総統候補である謝長廷の支持表明をせず、痺れをきらせた後援会が勝手に支持を表明する事態が発生したが、2008年3月の選挙直前に謝を「台湾が主権国家であるとはっきり言える人物」として支持表明[13]。しかし、国民党総統候補馬英九の当選後は産経新聞のインタビューで協力する意向を示した[14]。
こうした時期、地位によって政治的主張が異なる人物のため、台湾国内では『台湾独立を目指すことに変わりはないが、駆け引き上手な現実主義者』というイメージが強いとされる。
異なる時代に異なる地位で異なる政治主張を行なったため、その政治的評価は現在も定まっていない。
中華民国総統在任期間中(1988年-2000年)に総統及び副総統、台湾省長、台北市長、高雄市長選挙を住民の直接選挙とし、憲政及び国会で多くの改革を行い中華民国の民主化を促進した点については中華民国内外で概ね好意的な評価を受けている。しかしその政局運営では国民党の権力構造を改革するため地方分権を急速に実施した結果、企業や黒社会との癒着が進み、金権政治を発生させたという批判もあり、1990年代の政治風紀の乱れの責任を問う声もあるが、これらは李登輝が民主化と情報公開を推進した結果、それまで隠蔽されていた社会矛盾が暴露されたに過ぎないとの見解もあり、反李登輝の外省人(大陸出身者、或いはその子孫)系マスコミが依然として強いことも考慮する必要がある。
「台湾独立運動」に関する評価では両極に分化している。台湾独立派は伝統的な中国の概念と思想、そして文化体系より離脱し独立路線を採用したものとして好意的な評価を下している。事実総統任期中、中華民国の台湾本土化運動を推進し、伝統的な盟友であるアメリカや日本との強固な連携を確立し、退任後の台湾独立運動推進の基本路線を確定したと相当に高い評価を受け、国民党から除名された後も中華民国政局・台湾独立運動の主要な精神的指導者として確固たる影響力を有している。
また総統就任期間はアメリカ訪問の機会を探り、国際社会の中で中華民国の外交(国交樹立)拡大の可能性を模索し、二国論の主張は「一つの中国政策」を堅持する中華人民共和国政府の強烈な反発を招いた。退任後に台湾独立を明言すると中華人民共和国政府とその影響下の中華人民共和国国民、海外華僑の強い反発を受けている。また台湾国内でも泛藍と称される中華統一派からも政治主張の違いから否定的な評価を受けることとなった。
当初日本教育を受けていたため、その発言の中に日本に対する好意が見られ、また中華民国の公人でありながら自らを「半日本人」と称するなどその親日的な態度は顕著である。中華民国も領有権を主張する尖閣諸島(中国語名:釣魚台列嶼)を「沖縄県に属する日本固有の領土」と発言をし[15]、2008年9月24日には訪問先の沖縄で再び日本領土だと発言する[16]。靖国神社問題では2007年9月に開かれた集会「第6回産経李登輝学校」で「“靖国問題”とは中国とコリアがつくったおとぎ話なんだよ」と発言するなど、日本寄りの主張を行っている。中華民国の公人がこのように過度に親日的な態度を採る事に対して強く反発する勢力も存在する。
これらの評価は現在の政治問題と密接に関連しており、その歴史的評価が定まるまでにはなお時間を要する。
総統職から離れた後も台湾独立派に極めて重要な影響力を持つとされ、特に「一つの中国」を国是とする中華人民共和国政府は「台湾独立勢力の象徴的人物」として危険視している。登輝の来日の希望が取りざたされるたびに、中華人民共和国政府は日本政府に対してビザを発給しないよう要求するなど外交問題化する。
以下のように総統職を退いて以降の訪日が大きな騒動となっているが、戦後政界入り直後に日本の政治家と会談、視察目的で訪日しているどころか副総統時代にもビザ発注にまったく問題が起きず訪日を実現している。
2001年
2001年4月、持病の心臓病治療のために来日・倉敷を訪問している。日本政府は人道的な措置としてビザ発給。この騒動を主な契機として同年12月に日本李登輝友の会が設立される。登輝もインターネットを通じて講演を行った。
2002年
2002年10月、慶應義塾大学の学術サークル「経済新人会」が同大学の学園祭「三田祭」において講演を依頼したため、その依頼を受けて来日する意向が伝えられた。当初、講演は問題なく実現するかにみられたが、11月7日に学園祭の実行委員会が講演を却下した。その後、会場を別にして講演が行われるはずだったが、日本政府が李登輝の求めたビザの発給を拒否。訪日と講演は幻に終わった[17]。講演予定だった内容は、11月19日付け産経新聞朝刊で「日本人の精神」と題して全文が掲載された。
2004年
2004年12月から翌年1月にかけて曽文恵夫人や長男(故人)の嫁、孫娘の李坤儀らを伴い観光旅行として来日。私人に対するビザを断る理由はないとしてビザが発給された。ただし、政治的行動をしないなどの条件を日本政府は求めたとされる。登輝は名古屋市、金沢市、京都市を訪れた。京都では母校である京都帝国大学(現・京都大学)時代の恩師である柏祐賢・京大名誉教授と再会を果たしたほか、京大にも訪れたが時計台のある本部キャンパスの敷地へ入ることはできなかった。
2007年
2007年5月から6月にかけて奥の細道を訪ねる目的で来日し、東京・仙台・山形・盛岡・秋田などを訪問した。6月7日には、日本兵として戦死した兄が奉られている事を理由に靖国神社を参拝した。