1988年1月13日、蒋経国が死去。憲法上任期中に総統が死去すると副総統が継承するため登輝が総統に就任する。国民党主席代行に就任することに対しては蒋介石の妻・宋美齢が躊躇し主席代行選出の延期を要請したが、当時若手党員だった宋楚瑜が早期選出を促す発言をしたこともあり主席代行に就任する。7月には国民党代表大会で正式に党主席に就任した。しかし登輝の政権基盤は確固としたものではなく、李煥・?柏村・兪国華ら党内保守派がそれぞれ党・軍・政府(行政院)の実権を掌握していた。この後、登輝はこれらの実力者を牽制しつつ自らの政権基盤を固め、民主化を進めていった。
1989年に国民党内の支持が低いことを理由に兪国華が行政院長を辞任すると、国民党秘書長の李煥が行政院長に就任した。この時、後任の秘書長に登輝の国民党主席就任を支持した宋楚瑜を据え、登輝は党の主導権を握った。
1990年5月に登輝の代理総統の任期が切れるため、同年3月21日に総統選挙が行われることになった。国民党内では登輝が党推薦の総統候補になるコンセンサスが形成されており、登輝によって誰が副総統候補に指名されるか注目された。登輝が指名したのは李煥などの実力者でなく総統府秘書長の李元簇だった。これに反発した李煥・?柏村ら反李登輝派は党推薦候補を決定する国民党臨時中央委員会全体会議で林洋港を総統候補に擁立しようとし、李登輝派との間で「2月政争」が発生した。登輝は多数を確保し、満場一致で同会議において国民党の総統候補に選出された。この後、林洋港は無所属候補としても出馬しないことを表明し、反李登輝派の対抗馬擁立は失敗した。3月21日の総統選挙で登輝と李元簇は信任投票により総統・副総統に選出された。
同時期、台湾では民主化運動が活発化し、国民政府台湾移転後一度も改選されることのなかった民意代表機関である国民大会代表及び立法委員退職と全面改選を求める声が強まっていた。1989年に国民大会で「万年議員」の自主退職条例を可決させていたが、1990年3月16日、退職と引き換えに高額の退職金や年金を要求する国民大会の万年議員への反発から「三月学運」が発生した。総統再任後、登輝は学生運動の代表者や黄信介民進党主席らと会談し、彼らが要求した国是会議の開催と憲法改正への努力を約束した。6月に朝野の各党派の代表者を招き「国是会議」が開催され、各界の憲政改革に対する意見を求めた。国是会議の議論に基づいて、1991年5月に動員戡乱時期臨時条款を廃止し、初めて中華民国憲法を改正した。これにより国民大会と立法院の解散を決定し、この2つの民意代表機関の改選を実施することになった。そして「万年議員」は全員退職し、同年12月に国民大会、翌1992年12月に立法議員の全面改選が行われ「万年国会」問題は解決された。
1991年6月、登輝は李煥に代わって?柏村を行政院長に指名した。このときシビリアン・コントロールの原則に従って?を軍から除役させたため、?の軍に対する影響力が弱まり、軍の主導権も登輝が握ることになる。1993年に?が行政院長を辞任し、登輝の側近だった連戦が行政院長に就任したため行政院の主導権も握った。この後、登輝はより一層の民主化を推進していくことになる。
1994年7月、台湾省・台北市・高雄市での首長選挙を決定し、同年12月に選挙が実施された。さらに登輝は総統直接選挙の実現に向けて行動した。しかし国民党が提出した総統選挙草案は、有権者が選出する代理人が総統を選出するというアメリカ方式の間接選挙を提案するものであった。それでも登輝はフランス方式の直接選挙を主張し、1994年7月に開催された国民大会において、第9期総統より直接選挙を実施することが賛成多数で決定された。同時に総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定めた。
1996年、初めての総統直接選挙において54.0%の得票率で当選し、初めての民選総統として第9期総統に就任した。この選挙に際して中華人民共和国は台湾の独立を推進するものと反発し、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称される軍事演習を実施、ミサイル発射実験を行い、アメリカは2隻の航空母艦を台湾海峡に派遣して中華人民共和国を牽制し、両岸の緊張度が一気に高まり、これが「台湾人」のアイデンティティーを触発して本人の再選を実現したとの分析もある。
総統に再び就任した後、登輝は行政改革を進めた。1996年12月に「国家発展会議」(「国是会議」の名称が変更されたもの)を開催したが、この会議の議論に基づいて1997年に憲法を改正し、台湾省を凍結(地方政府としての機能を停止)することが決定された。これによって台湾省政府は事実上廃止することになった。
2000年の総統選挙では自身の後継者として連戦を推薦し選挙支援を行なうが、この選挙では国民党を離党した宋楚瑜が総統選に参加したことから、国民党票が分裂、最終的には民主進歩党候補の陳水扁が当選し、第10期中華民国総統に就任した。これにより中華民国に平和的な政権移譲を実現したが、野党に転落した国民党内部からは登輝の党首辞任を求める声が高まり、2000年3月に国民党主席職を辞任している。
外交は、今までの「中華民国は中国全土を代表する政府」という建前から脱し、「現実外交」を展開した。1989年にシンガポールを訪問した際、シンガポール側が李登輝を「中華民国総統」ではなく「台湾から来た総統」という呼称を用いたが、登輝は「不満だがその呼称を受け入れる」と表明した。また、1990年にGATTには「中華民国」ではなく「台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域」の呼称で加盟し、1991年にはAPECに「中華台北」の呼称で加盟している。
両岸問題では中華民国国家元首・国民党主席の立場から三民主義に立脚した中国統一政策を標榜した。1991年、国家統一委員会に於いて『国家統一綱領』を策定、中華民国は中国の一部であり、中国大陸もまた中国の一部と表明した。しかし1996年に総統に再選された後は両岸関係に対する態度を変え、「台湾独立」を意識した発言を強めていくことになる。1999年7月、ドイツの放送局ドイチェ・ヴェレのインタビュー中で両岸関係を「特殊な国と国の関係」と表現、ここに二国論を展開することとなった。同年12月にも、アメリカの外交専門雑誌『フォーリン・アフェアーズ』の論文で「台湾は主権国家だ」と記述し、台湾独立を強く意識する主張を行った。
総統職を退いた後は台湾独立の立場を明確にした。「中華民国は国際社会で既に存在しておらず、台湾は速やかに正名を定めるべき」との台湾正名運動を展開し、2001年7月には国民党内の本土派と台湾独立派活動家と共に「台湾団結連盟」を結成した。