朝鮮半島では、李氏朝鮮王朝の時代になるとそれまで進展していた経済の発展にきわめて強い規制がかかった。朝鮮王朝のイデオロギーである儒教主義では商人は極めて卑しいものとされたためであった。そのため本格的な貨幣制度がなかなか定着しなかった。李氏朝鮮王朝も何度か貨幣制度の導入を行ったものの、商人を卑しむ儒教イデオロギーを無傷で温存したため根本的な解決はできなかった。
第4代世宗の時代に入り、金属貨幣である「朝鮮通宝」が発行され、本格的な貨幣経済への重要な一歩を示したが、流通量は少なく、秀吉の侵略や清の侵攻で国内の産業基盤がズタズタにされたことで意図したほどの効果は上がらなかった。17世紀後半に至って「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を鋳造し、再び貨幣経済を振興させようとするが、金銀などを使用した高額貨幣の流通は余りにも微少だった。また造幣を行う役人によって銅が横流しされ、その分を鉛で補っていたために市中でも貨幣に対する信頼度は低かった。
とはいえこのような制約の中でも李氏朝鮮王朝後期の18世紀、19世紀には商人階級の勃興と富の蓄積、また両班の地位を金で購入することなどが広まり、朝鮮の商業は大きな進歩を見せた。しかしその後も支配者層の儒教イデオロギーに基づく介入が相次ぎ、また19世紀初期の飢饉や反動政治などもあって、朝鮮における商業の発展は非常に障害が多かった。その発展度は日本、中国に遠く及ばなかった。李氏朝鮮末期に至っても物々交換は完全になくなったわけではなく、村落部を中心に残存していた。李氏朝鮮末期に至り西洋、中国、日本などの銀貨が流通し始める事によって、交易を行う釜山などを中心とした高額貨幣の流通量が増大するが、それまでは極端な場合100円銀貨に相当する貨幣を運搬するのに馬1頭を使わなければならないこともあるなど、非常に不便を強いられていた。
李氏朝鮮時代の交易は、中国との朝貢貿易、対馬を介した日本との交易、琉球との交易が中心であった。中国の朝貢貿易の主力は朝鮮人参、貂皮、海獺皮、昆布、日本から輸入した銀などであり、代わりに塩・生糸・絹織物などを輸入していた。対馬との交易は、中国から輸入した生糸や絹織物、木綿、朝鮮人参、穀類などを輸出し、代わりに銀や銅を大量に輸入していた。対馬との貿易のピークは18世紀中頃であり、金額ベースで、日清・日蘭貿易をしのいでいたと言われる。しかし、日本銀の生産量が激減すると江戸幕府は中国への銀輸出を規制すると共に自給自足政策を奨励したため、17世紀後半には木綿は自給できるようになり、また生糸、朝鮮人参に関しては18世紀後半に自給体制を整えたために朝鮮から日本への輸出品目から外れた。また、1750年には朝鮮への銀輸出禁止令が江戸幕府から発布され、対馬との間の交易は以後限定的なものとなった。
李氏朝鮮の文化政策は、一言でいえば儒教の一派である朱子学を尊重し、仏教を弾圧したと説明される。しかし、太祖・李成桂が仏門に帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3代太宗の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院が廃され、242の寺のみが国家の統制下に残された。第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や奴婢の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。たとえば、太宗時代に土橋の代わりに石橋を造ることになったが、十二神将の石仏を破壊し、その石材にするということを行った。
ただし、李氏朝鮮前期の廃仏政策は一貫性が無く、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。また第7代世祖は、儒臣との対立から仏教を返って保護し、ソウル内に円覚寺と言う寺を建てた。この寺は、第10代燕山君の時代に破壊され、妓生を管理する建物に建て替えられている。第8代睿宗の時代には再び廃仏政策は強化され、第11代中宗時代は李氏朝鮮前期で最も仏教弾圧が厳しい時代であったが、中宗の3人目の王后である文定王后尹氏は仏教を信奉し、中宗亡き後の時代には外戚と共に王権を執権していたため、彼女の息子が王位についていた第13代明宗の時代には廃仏政策は緩み、仏典のハングル訳が出版されたり、仏教の復権に努めた。しかし、時流は完全に廃仏に流れており、仏教の復権は失敗に終わった。李氏朝鮮初期の崇儒廃仏政策はこの様に一貫せず一進一退を繰り返すが、第16代仁祖の時代に城内からの僧侶追放令が発せられ、ここに李氏朝鮮の廃仏政策は完成に至る。
そして各種書籍の編纂事業が国策事業として推進され、印刷術と製紙術がかなり発展した。第3代太宗の時代には活字を作って書籍の印刷を担当する官署である「鋳字所」を設置して、高麗時代に発明された金属活字を改良して他の国より2倍以上の印刷能率を持つようになった。それに多くの書籍が出版されるに伴ない、紙の生産量も増加して、質の良い紙を専門的に生産する「造紙署」を設置し多様な紙を大量に生産した。
李氏朝鮮は朱子学を社会的理念として採択しながら儒教的秩序を確立するために、倫理と儀礼に関する書籍を多く編纂した。第4代世宗の時代には人々に模範となるべき忠臣、孝子、孝女の業績に関して記録した倫理書である『三綱行実図』を編纂した。また第9代成宗の時代には国家のさまざまな行祀に必要な書籍を整備して書籍書である『国朝五礼儀』を編纂した。16世紀には士林派が小学と朱子家禮の普及するために『二倫行実図』と『童蒙須知』などを刊行して普及した。『二倫行実図』は年長者と年少者、友達に対して守らなければならない礼節を強調した倫理書であり、『童蒙須知』は児童が守らなければならない礼節を記録した児童用倫理書だった。
公的な文化の中心となるのは中国語の文語である漢文であり、朱子学を中心として陽明学などを取り入れた朝鮮独自の朝鮮朱子学(朝鮮性理学)が発達した。漢字のみでは朝鮮語をあらわすことはできないため、朝鮮語を記すために1443年にハングルの起源になる訓民正音が作成されたが、中華思想に骨の髄まで支配された両班ら男性知識人は当初これを諺文(オンムン)と呼んで蔑み、李氏朝鮮末期まで正規の文字として使われることはなかった。しかしハングルは朝鮮語の表記に適した科学的な文字であったために民衆の文字として急速に下層階級、婦女の間に広まり、識字率の向上に寄与した。庶民はこの文字を使い詩や歌を記録し、また私文書に使用した。李朝後期には知識人の中にもハングルを使うものが現れ、朝鮮王朝文学の最高峰とも呼ばれる『春香伝』などが書かれた。ハングルを使用した文学には、漢字ハングル混用、ハングル専用の2種類があり、前者は主に革新的な両班、中人階級用。後者は庶民のための文学だった。
李氏朝鮮は漢城に国立教育機関である「成均館」を設置、現在の大学のような役目を果たした。そして現在の中学校及び高等学校の役目をする教育機関として、漢城には「四学」、地方には「郷校」を置いた。また小学校に該当する「書堂」もあった。一方地域ごとには偉いソンビや功臣の業績を称頌と崇拜するための学院である「書院」が設立され、儒生らは自分が属した書院に集まって勉強と討論をしながら自分たちが仕える英霊に祭祀をして地域住民らを教化する仕事をした。
李朝絵画は前半期には中国山水画の模倣だったが、18世紀後半に金弘道と申潤福が出て独自の境地を開いた。金弘道は風俗山水画、申潤福は風俗画や美人画を得意とした。磁器は、朝鮮白磁と呼ばれる磁器が作られており、前代の高麗青磁に比して華麗さでは見劣りしたが優美さでは先んじていた。李朝時代に白磁が尊ばれたのは朱子学で白が高貴な気高い色とされているためである。しかし、赤土しか産出できない地域も当然ある。「なんとか白い器が欲しい…」そうした人たちが生み出したのが粉引(粉吹)である。