杉山元
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杉山メモ

参謀総長時代に会議(御前会議・大本営政府連絡会議)の内容などを記したメモランダムの写しが戦後『杉山メモ』として公刊され、当時の軍・政府上層部の動向を知る貴重な資料となっている。

『杉山メモ―大本営政府連絡会議等筆記(上・下)』(参謀本部編、原書房、1967年)


エピソード杉山元(敬礼中の人物、1943年6月1日)

対米開戦をめぐる昭和天皇との以下のようなやりとりは有名である。
帝国国策遂行要領決定時に対米戦争の成算を問われた杉山は楽観的な回答をする。これに対して天皇は「汝は支那事変勃発当時の陸相であるが、あのとき事変は1ヶ月程度で片付くと申したのに今になっても終わっていないではないか」と問いつめた。答えに窮した杉山が「支那は奥地が広うございますので」と言い訳すると、天皇は「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか」と一喝したと言われている[1]

なお、終戦直前に元帥として天皇に意見を求められた杉山は、同じく元帥で開戦時の軍令部総長である永野修身とともに「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と奏上したという。


綽名は「便所の扉」。理由は「どちらでも、押した方向に動く」ことから。


自決をめぐって

終戦後、9月に入ってから司令官室でピストル自決した(9月12日)が、この際にも彼らしいエピソードを残した。彼は終戦後もすぐに自決せず、終戦直後に療養先から自宅に戻ってきた妻に「自決すべき」と迫られたとされる。既に「御詫言上書」は終戦の日に書き上げて自決の覚悟もしていたようだが、これを妻に明かしたのは23日になってからであった。

終戦処理を終えた後、9月12日朝、部下から拳銃を受け取った後自室に入った彼は、暫くして突然ドアを開き緊張してドアの外で待っていた第53軍高級参謀・田中忠勝大佐に「おい、弾が出ないよ」ととぼけて言ったという。田中大佐が安全装置を外してやるとそのまま部屋に再び入り、胸を4発拳銃で撃ち抜き従容と自決したという。この自決の報を自宅で聞いた夫人は「息を引き取ったのは間違いありませんか?」と確認した後、正装に着替え仏前で青酸カリを飲み、短刀で胸を突き刺し自決して夫の後を追った。二人が再び面会したのは幡ヶ谷葬儀場であったという。


御詫言上書

杉山は日中戦争開始時の陸相、太平洋戦争開戦時の参謀総長であり、敗戦責任について痛感することが大きく、8月15日の段階で「御詫言上書」と題する遺書をしたためていた。そして、この遺書は自決後の9月13日、昭和天皇の上聞に達した。全文は以下のとおりである。

御詫言上書

大東亜戦争勃発以来三年八ヶ月有余、或は帷幄の幕僚長として、或は輔弼大臣として、皇軍の要職を辱ふし、忠勇なる招聘の奮闘、熱誠なる国民の尽忠に拘らず、小官の不敏不徳能く其の責を全うし得ず、遂に聖戦の目的を達し得ずして戦争終結の止むなきに至り、数百万の将兵を損し、巨億の国幣を費し、家を焼き、家財を失ふ、皇国開闢以来未だ嘗て見ざる難局に擠し、国体の護持亦容易ならざるものありて、痛く宸襟を悩まし奉り、恐惶恐懼為す所を知らず。其の罪万死するも及ばず。

謹みて大罪を御詫申上ぐるの微誠を捧ぐるとともに、御竜体の愈々御康寧と皇国再興の日の速ならんことを御祈申上ぐ。

昭和二十年八月十五日 認む             恐惶謹言

陸軍大将 杉山 元(花押)


注釈^ 近衛文麿の手記『平和への努力』等による。『杉山メモ』では「(日中開戦時)大臣として蒋介石は直ぐ参ると申したがそうなっていないようだが」と下問されたとのみ記載されている。


関連項目

福岡県出身の人物一覧

先代:
中村孝太郎
東條英機陸軍大臣
1937年 - 1938年
1944年 - 1945年次代:
板垣征四郎
阿南惟幾

先代:
閑院宮載仁親王参謀総長
1940年 - 1944年次代:
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カテゴリ: 日本の陸軍軍人 | 太平洋戦争の人物 | 日本の閣僚経験者 | 北九州市出身の人物 | 1880年生 | 1945年没 | 自殺した人物

更新日時:2008年7月11日(金)00:57
取得日時:2008/09/02 17:26


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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