洪武帝は自分が老いるに従い後の心配をするようになった。皇太子に選ばれたのは長男の朱標であったが、この皇太子は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われる。
1375年には劉基が胡惟庸に毒殺された。廖永忠も殺されている。1380年には、功臣・中書左丞相・胡惟庸の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは胡惟庸の獄と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。同年に宋濂も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となったが、翌年死んだ。1384年には李文忠が毒殺された。1385年に徐達が病死したが、これにも毒殺説がある。さらに胡惟庸の獄の10年後の1390年、事件を再び蒸し返して李善長ら功臣の大粛清を行った。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされる。
これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた1392年、皇太子が早世した。洪武帝は皇太子の子の朱允?を皇太孫としたが、幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めた。1393年には藍玉が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺された。これは藍玉の獄と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言う。1394年には傅友コが殺された。傅友コについてはなぜ殺されたのかが分からず歴史家も理由を探すのに難儀しているという。1395年には馮勝が殺された。
洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、1398年に死去した。享年71。後を孫の朱允?(建文帝)が継いだ。
父母
父 朱世珍(元の名は朱五四、後に仁祖淳皇帝とされる)
母 陳氏(後に淳皇后とされる)
子
朱標、後の懿文太子、母は馬皇后
朱?(木偏 + 爽 ⇒zh:朱?)、後の秦愍王、母は馬皇后
朱棡、後の晋恭王、母は馬皇后
朱棣、後の燕王、永楽帝、母は高麗貢女
朱?(木偏 + 粛 ⇒zh:朱?)、後の周定王、母は馬皇后
朱、後の楚昭王、母は胡充妃
朱榑、後の斉王(木偏 + 専)、母は達定妃(永楽年間に廃されて庶人となる)
朱梓、後の潭王(洪武年間自焚死)、母は達定妃
朱杞、後の趙王(幼殤)、母は不明
朱檀、後の魯荒王、母は郭寧妃
朱椿、後の蜀献王、母は郭惠妃
朱柏、後の湘献王、母は胡順妃
朱桂、後の代簡王、母は郭惠妃
朱?(木偏 + 央)、後の粛庄王、母は?氏
朱植、後の遼簡王、母は韓妃
朱栴、後の慶靖王、母は余妃
朱権、後の寧献王、母は楊妃
朱?、後の岷庄王、母は周妃
朱?(木偏 + 惠)、後の谷王、母は郭惠妃(永楽年間に廃されて庶人となる)
朱松、後の韓憲王、母は周妃
朱模、後の瀋簡王、母は趙貴妃
朱楹、後の安惠王、母は不明
朱?、後の唐定王、母は李賢妃
朱棟、後の郢靖王、母は劉惠妃
朱?(木偏 + 彝)、後の伊暦王、母は葛麗妃
朱楠、母は不明
女
臨安公主
寧国公主
崇寧公主
安慶公主
汝寧公主
懐慶公主
大名公主
福清公主
寿春公主
十公主
南康公主
永嘉公主
十三公主
含山公主
汝陽公主
宝慶公主
福成公主
慶陽公主
徐達、湯和、費聚、呉良、呉、花雲、陳徳、顧時、耿再成、耿炳文、唐勝宗、陸仲亨、華雲龍、鄭遇春、郭興、郭英、胡海、張龍、陳桓、謝成、李新材、張赫、周銓、周徳興[2]
李善長、徐達、常遇春、馮宗異、胡廷端、廖永忠、李伯升、趙庸、王溥、楊憲、傅?、康茂才、張興祖、顧時、孫興祖、呉、耿炳文、ケ愈、湯和、劉基、章溢、文原吉、範顕祖[3]
侯爵:湯和、唐勝宗、陸仲亨、周徳興、華雲龍、顧時、耿炳文、陳徳、郭子興、王志、鄭遇春、費聚、呉良、呉、趙庸、廖永忠、兪通源、華高、楊m、康鐸、?亮祖、傅友徳、胡美、韓政、黄彬、曹良臣、梅思祖、陸聚[4]。
徐達、常遇春、李文忠、ケ愈、湯和、沐英、兪通海、張徳勝、胡大海、趙得勝、耿再成、桑世傑[5]
徐達、常遇春、李文忠、ケ愈、湯和、沐英、胡大海、趙徳勝、華高、兪通海、呉良、曹良臣、呉復、孫興祖、馮国用、耿再成、丁コ興、張徳勝、呉、康茂才、茅成[6]