父母
父 朱世珍(元の名は朱五四、後に仁祖淳皇帝とされる)
母 陳氏(後に淳皇后とされる)
子
朱標、後の懿文太子、母は馬皇后
朱?(木偏 + 爽 ⇒zh:朱?)、後の秦愍王、母は馬皇后
朱棡、後の晋恭王、母は馬皇后
朱棣、後の燕王、永楽帝、母は高麗貢女
朱?(木偏 + 粛 ⇒zh:朱?)、後の周定王、母は馬皇后
朱?、後の楚昭王、母は胡充妃
朱榑、後の斉王(木偏 + 専)、母は達定妃(永楽年間に廃されて庶人となる)
朱梓、後の潭王(洪武年間自焚死)、母は達定妃
朱杞、後の趙王(幼殤)、母は不明
朱檀、後の魯荒王、母は郭寧妃
朱椿、後の蜀献王、母は郭惠妃
朱柏、後の湘献王、母は胡順妃
朱桂、後の代簡王、母は郭惠妃
朱?(木偏 + 央)、後の粛庄王、母は?氏
朱植、後の遼簡王、母は韓妃
朱栴、後の慶靖王、母は余妃
朱権、後の寧献王、母は楊妃
朱?、後の岷庄王、母は周妃
朱?(木偏 + 惠)、後の谷王、母は郭惠妃(永楽年間に廃されて庶人となる)
朱松、後の韓憲王、母は周妃
朱模、後の瀋簡王、母は趙貴妃
朱楹、後の安惠王、母は不明
朱?、後の唐定王、母は李賢妃
朱棟、後の郢靖王、母は劉惠妃
朱?(木偏 + 彝)、後の伊暦王、母は葛麗妃
朱楠、母は不明
女
臨安公主
寧国公主
崇寧公主
安慶公主
汝寧公主
懐慶公主
大名公主
福清公主
寿春公主
十公主
南康公主
永嘉公主
十三公主
含山公主
汝陽公主
宝慶公主
福成公主
慶陽公主
徐達、湯和、費聚、呉良、呉?、花雲、陳徳、顧時、耿再成、耿炳文、唐勝宗、陸仲亨、華雲龍、鄭遇春、郭興、郭英、胡海、張龍、陳桓、謝成、李新材、張赫、周銓、周徳興[2]
李善長、徐達、常遇春、馮宗異、胡廷端、廖永忠、李伯升、趙庸、王溥、楊憲、傅?、康茂才、張興祖、顧時、孫興祖、呉?、耿炳文、?愈、湯和、劉基、章溢、文原吉、範顕祖[3]
侯爵:湯和、唐勝宗、陸仲亨、周徳興、華雲龍、顧時、耿炳文、陳徳、郭子興、王志、鄭遇春、費聚、呉良、呉?、趙庸、廖永忠、兪通源、華高、楊?、康鐸、?亮祖、傅友徳、胡美、韓政、黄彬、曹良臣、梅思祖、陸聚[4]。
徐達、常遇春、李文忠、?愈、湯和、沐英、兪通海、張徳勝、胡大海、趙得勝、耿再成、桑世傑[5]
徐達、常遇春、李文忠、?愈、湯和、沐英、胡大海、趙徳勝、華高、兪通海、呉良、曹良臣、呉復、孫興祖、馮国用、耿再成、丁?興、張徳勝、呉?、康茂才、茅成[6]
人物・逸話
洪武帝の死後、孫の朱允?が即位して建文帝となった。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には靖難の変で建文帝と息子の朱棣が戦うことになる。洪武帝は家臣には異常な程猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった(若い頃に家族を失い、孤児となった記憶から家族を強く愛し、疑わなかったのであろう)。戦術に長けていた功臣は既に殺し尽くされていたので、建文帝軍は二流の将軍しか持たず、結局建文帝は敗死した。
現代に残っている洪武帝の肖像画には2種類が知られている。一方はいかにも君子然とした温和そうな老人であり、もう一つはねじくれた顔をした醜い人相のものである。後者が実像で、前者は画家に粉飾させたものと推察される。豊臣秀吉にも似たような話があるが、洪武帝の場合本人の二重性格を表しているとの指摘もある。また逆に、前者が実像で、後者のほうが粉飾であるという異説もある。暗殺を恐れて、あえて醜悪な顔であると広めたという説である。
文字の獄のような政策は政治上の必要から行われたこともあったろうが、その基盤となったのは洪武帝の文人や商人に対する不信感、あるいは憎悪によるものでもあったであろう。少年時代の極貧生活の記憶が常に洪武帝の頭の中にあった。文人や功臣を大量に殺す一方で肉刑を禁ずる布告を出したり、治水工事を熱心に行うなど農民に対しては常に心を砕き、恤れみの心を持っていた。清の趙翼は朱元璋の事を「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」と評している。