朱元璋
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中国統一

太祖は元に内紛を生じたのを好機と捉え、20万を越える大軍を竹馬の友である徐達に授け北伐を行わせた。当時元軍の主力であるココ・テムルの軍は陝西で李思斉の軍と交戦中であり、中原の防備は手薄であった。北伐軍は快調に進撃し、山東、河南を次々に平定した。元の順帝は抵抗を諦め首都大都を放棄して北方へ逃走したため、明軍は抵抗を受けることもなく同年の8月に大都を占領し、北平府と改称した。元はモンゴルへ撤退し北元となった。1371年に紅巾の残党である四川の大夏国を滅ぼし、1381年には段氏の雲南を平定し中国を統一した。また北元を討つためモンゴルへ繰り返し出兵し、元の残党の多くを降らせることに成功した。1387年の遠征で北元最後の主力であったマンジュリア軍団を討ち、北元をほぼ壊滅させた。


即位後の政策晩年の洪武帝の肖像画


国家組織

洪武帝は独裁権力の確立を目指し中書省を廃止して六部を直属とした。また軍も皇帝直属とし、宦官の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないという布告を出した。(詳細に関しては「」の項を参照。)


民政

洪武帝は重農政策を打ち出し、大商人を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行った。また、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や銅銭紙幣の発行、民間におけるの通貨としての使用を禁じた。一方で1380年には不当な商税を廃して、生活必需品を扱うような零細な商人の保護も行っている。

重農政策のもと、1371年には地方官の治績の評価に流民の定着と農地回復の度合いを加え、1381年に全国一斉に魚鱗図冊(土地台帳)、賦役黄冊(戸籍台帳)を作り、里甲制(村落の自治的行政制度)・衛所制(兵農一致による軍事制度)を実施した。1394年には工部の官吏と国子監の学生を総動員して治水事業を一斉に行い、全国で49,007ヶ所の堤防を修繕したという。


官吏、知識人の弾圧

そして文字の獄と呼ばれる大弾圧を行った。「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで、洪武帝が昔僧侶であったことをあてこすったとされて殺され、洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので、「盗」の字と同音の道、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺された。ある教授は洪武帝を「光天の下、天は聖人を生ず」と褒めたところ、たちまち死刑になったという[1]

1382年には「空印事件」(「空印の案」とも)と呼ばれる官吏への残虐な懲罰を行った。当時の地方官らの間では、ある種の文書作成の手間を省くため、先に承認印だけを押した用紙(空印)を用意しておき、それを利用して報告書を作成することが常態となっていたのだが、それに気付いた洪武帝は、印の管理者を全員死刑とし、他の関係者にも厳罰を下したのである。鄭士利という地方官は、空印事件の関係者に冤罪の者が大勢いる旨を洪武帝に直訴したところ、かえって罪に処せられて労役に付かされた。

1385年には郭桓事件が起こる。これは、戸部侍郎の郭桓が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。

文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。官吏を選抜するための科挙は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明の時代に試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。


粛清

洪武帝は自分が老いるに従い後の心配をするようになった。皇太子に選ばれたのは長男の朱標であったが、この皇太子は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われる。

1375年には劉基が胡惟庸に毒殺された。廖永忠も殺されている。1380年には、功臣・中書左丞相胡惟庸の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは胡惟庸の獄と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。同年に宋濂も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となったが、翌年死んだ。1384年には李文忠が毒殺された。1385年徐達が病死したが、これにも毒殺説がある。さらに胡惟庸の獄の10年後の1390年、事件を再び蒸し返して李善長ら功臣の大粛清を行った。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされる。

これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた1392年、皇太子が早世した。洪武帝は皇太子の子の朱允?を皇太孫としたが、幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めた。1393年には藍玉が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺された。これは藍玉の獄と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言う。1394年には傅友コが殺された。傅友コについてはなぜ殺されたのかが分からず歴史家も理由を探すのに難儀しているという。1395年には馮勝が殺された。

洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、1398年に死去した。享年71。後を孫の朱允?(建文帝)が継いだ。


宗室


父母

父 朱世珍(元の名は朱五四、後に仁祖淳皇帝とされる)

母 陳氏(後に淳皇后とされる)


后妃

皇后 孝慈高皇后馬氏

成穆貴妃

淑妃

寧妃





朱標、後の懿文太子、母は馬皇后

朱?(木偏 + 爽  ⇒zh:朱?)、後の秦愍王、母は馬皇后

朱棡、後の晋恭王、母は馬皇后

朱棣、後の燕王、永楽帝、母は高麗貢女

朱?(木偏 + 粛  ⇒zh:朱?)、後の周定王、母は馬皇后

朱、後の楚昭王、母は胡充妃

朱榑、後の斉王(木偏 + 専)、母は達定妃(永楽年間に廃されて庶人となる)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki