日本では、有事への対処を優先するために私権を制限することや憲法の平和主義との整合性で長年にわたり論議があったが、平成15年(2003年)6月13日に武力攻撃事態対処関連三法が成立し、有事法制の基本法である武力攻撃事態対処法が施行されたことで法制の枠組みが整備された。
その際に制定が先送りされた国民保護法等は、翌平成16年(2004年)6月18日に公布され、同年9月17日に施行された。これにより有事の危機対応における基本的法整備がなされ民間防衛の実施体制に向けた環境整備を進めるための足掛かりを築くことになった。さらに、こうした有事法制と自然災害やヒューマンエラーをも包括した、いわゆるマルチハザード型の法体系を確立すべくそれら緊急事態の法体系整備に向けた取り組みとして自民党、民主党、公明党の与野党3党は2005年以降の通常国会にて緊急事態基本法の成立に向けて調整を行うことで一致した。
また、さらには安全保障基本法の策定やそれらの基本法、或いは法体系そのものの整備には憲法改正論議において国家緊急権、即ち有事法制発動の要件として事前承認に留めるべきか、または弾道ミサイルが発射された場合、7分から10分で日本が被弾するといわれ、こうした国会承認に基づく防衛行動が困難なケースに際して、国会におけるミサイル防衛の容認をはじめ自衛隊による防衛行動の国会における承認手続きをめぐっては今後とも与野党の中でおおいに議論となることが想定される。
成立経緯
初期段階 北朝鮮有事への対応のために検討された有事法制
有事法制の研究は戦後、防衛庁が設置されて以来、長年の懸案であった。戦後、未だ自衛隊の合憲性を問う声や賛否をめぐる議論が根強かった時代にあって、防衛庁内において第3次朝鮮戦争の勃発が懸念されたことを契機に1963年、防衛庁内において非公式かつ非公開な形で有事法制の研究が行われた。元号から“三矢研究”と名づけられた「昭和38年総合防衛図上演習」である(研究の詳細は三矢研究の項目を参照のこと)。
この研究が「国会爆弾男」の異名を持つ日本社会党の岡田春夫により、国会にて暴露され、社会党及び日本共産党からクーデターの研究だという批判までなされた。時の首相・佐藤栄作は社会党の指摘を受けるまで把握していなかったことから「事実なら許せない」と答弁するも、後に前言撤回し、首相が感知していれば問題ないと再答弁した。これにより、一応において有事法制研究そのものは違法ではないという体裁は保てたものの、非公式な形で三矢研究がなされたことへの批判までは払拭できず、研究に従事した自衛官を「文書管理不備」で罰した。つまり、研究に従事した自衛官の罰則も研究そのものではなく、文書管理として処理することにより研究の正当性だけは保った。
しかし、当時有事法制をめぐる情勢はあまり国民の理解を得るには困難が伴い、政府としても早期の法制化はあきらめ、結局研究は頓挫することとなった。
第2段階 ソ連軍侵攻の懸念から再燃した有事法制
さらに1978年、栗栖弘臣統合幕僚会議議長による発言の中で、現行では有事に際して自衛隊は超法規的措置をとらざるを得ないという超法規的措置を許容する趣旨の発言が波紋を呼び、栗栖の発言撤回がなかったため、野党の批判を呼び、罷免されるという栗栖事件が起き、このときも賛否両論を招きながらも世論の中ではまだ時期尚早の感があった。
第3段階 周辺事態に飛躍する日米同盟と有事法制をめぐる情勢の変化
しかし、冷戦崩壊後、有事法制をめぐる動静は少しずつ進展を見せるようになる。日米同盟において対ソ連から冷戦後の新たな脅威に対する抑止力として再定義することが検討されたのである。1994年には日米両国の間で、ソ連崩壊後も極東において一党独裁による軍事優先の政治を行う北朝鮮情勢が大きな懸念として残っており、朝鮮半島有事に際しての日米協力のあり方を明確にすべきだという議論が起きた。この議論を契機として1996年には日米両国において日米防衛協力の指針(日米ガイドライン)見直しが検討された。
見直しが進められた背景としては
平素から並びに日本に対する武力攻撃及び周辺事態に際して、より効果的かつ信頼性ある日米協力を行うための堅固な基礎を構築すること
平素からの緊急事態における日米両国の役割並びに協力及び調整のあり方につき、一般的な大枠及び方向性を示すこと
とされた。これは、世界的な武力紛争が発生する可能性が遠のいたという認識のもとに、しかしながら今日における日米両国の将来と繁栄がアジア・太平洋地域の安定的で繁栄した情勢を維持するためには、日米安全保障条約を基盤とした日米両国間の安全保障面の関係が基礎となるという日米双方の認識により進められたものであり、日本による国際秩序に対する安全保障上の貢献をより強く打ち出すことが大きな目的とされた。
特に冷戦後、南アジア以西から油田地帯である中東、アフリカに軍事力をシフトさせたいアメリカにとって、日本が極東の安全保障に一定の役割を果たすことで、アメリカの極東での防衛負担を軽減させ、不安定ながらも油田の豊富な中東に対する戦略を強化させることが大きな目的であった。日本にとっても、中東への石油依存度が高く、日本と中東をつなぐ地域の安定化は不可欠であり、そうした両国の国益から日米同盟を極東から地理的に限定されない周辺事態において協力する体制へと変化していった。
この新ガイドラインの見直しに先立ってジョセフ・ナイ国防次官補による「東アジア戦略構想」(ナイ・レポート)の中で日米両国の安全保障協力を地球規模の同盟として位置付けられたことにより同ガイドラインは旧来の対ソ連を軸とした極東地域における同盟関係の域を超えて、より広域な国際秩序の安定のための協力関係の構築が検討されたのである。 1998年、日米新ガイドラインに基づき、周辺事態における日米両国の具体的な協力について規定した周辺事態法が成立し、日米同盟は極東地域に限定された協力関係からより広域な同盟関係へと大きく変化を遂げることとなった。この法律は周辺事態に対応して日米が共同作戦により後方支援活動を実施できる体制を整えるものであったが、この共同作戦を日本国内で実施できる環境が必要とされてきた。
2000年にはリチャード・アーミテージ米国防副長官が対日外交の指針として作成した「アーミテージ・レポート」において日本に対して、有事法制の整備を要求する文言が盛り込まれた。これを契機に日本の政府与党は有事法制の整備に向けた検討を開始していく。
最終段階 テロを契機に整備に至った有事法制
しかし、有事法制は長年、タブーとされてきた分野であり、依然と反対論の強いものであった。しかし、2002年まで続け様に北朝鮮の不審船事件が発覚、さらにはアメリカ同時多発テロ事件の発生により、世界的に国際テロの脅威が認識されるようになった。