『魏書』明帝紀などによれば、曹叡は軍事に対して幾度も言及している。その内容は戦況と先の展開を的確に把握しており、以下のような場面において発揮されている。
226年、孫権が自ら江夏を攻めた時、「孫権の狙いは奇襲である。文聘が江夏を固守しているため、戦線は既に膠着状態に陥っている」と推測し、これを前提に「援軍が有ると見せかけさえすれば、援軍は少数でも孫権は退くだろう」と読み、援軍として荀禹を派遣した。曹叡の読み通りに孫権は撤退した。別働隊の諸葛瑾と張覇に対しては司馬懿を襄陽に向かわせて撃退した。
227年、麹英が西平で反乱を起こすと、?昭らを派遣し鎮圧した。
228年、新城太守の孟達が蜀の諸葛亮と内通した事を知ると、司馬懿をその鎮圧の任に当たらせ孟達を斬った。このことは、蜀側にとっては新城からの侵攻ルート消滅を意味し、魏国側にとっては蜀漢による挟撃を防いだ事を意味する。これは蜀漢の第一次北伐における魏国の街亭での勝利に間接的ながらも貢献した。諸葛亮によって、以後五度にわたる侵攻(北伐)が開始されると、皇族の曹真、司馬懿や張?など曹操以来の宿老達を用いて、これらを防がせた。また第一次北伐時には親征して長安方面の動揺を鎮めている。
234年、呉蜀が相次いで魏領に侵攻した。この時、満寵は“合肥の守備は放棄し、孫権を寿春で迎え撃つ”という計画を立てた。それに対して曹叡は“合肥、襄陽、祁山は魏の重要な防御拠点であり、敵は決して落とす事が出来ない。であるから、合肥で敵を迎え撃つように”との詔を出して計画を改めさせ、さらに合肥へ親征した。孫権は合肥を攻撃したが、守将の張穎らの前に攻めあぐね、曹叡が戦場に到着する前に撤退した。一方、五丈原で諸葛亮と対峙する司馬懿には、“決戦を回避して持久戦に持ち込み、撤退時には追撃するべし”との詔を出し、防衛の成功に貢献した[5]。
238年、遼東の公孫淵が燕王を自称して魏に対する謀反を起こすと、曹叡は群臣の反対を押し切って征討を決行した。司馬懿の判断を全面的に信用し、全権を委ねて鎮圧に当たらせた結果、反乱の早期鎮圧に成功した。魏国が蜀漢・呉と当たる際、後顧の憂いとなっていた遼東公孫氏を取り除いた。
234年、諸葛亮が病没すると、連年のように行われていた蜀漢の北伐は沈静化した。呉も同盟国である蜀漢の内情を考慮し、外征を一時中断した。こうして周囲の外圧が減少に転じると、曹叡は内政の手腕を問われるようになる。
数度に渡って宮殿の造営などを行い、その費用により魏の財政は大きく傾き、また農繁期の農民を多く徴用したために農村の荒廃を招いたと言われる。
次に兵力の恒常的確保のため、兵士の家同士の結婚を奨励。官民(兵士以外の家)に嫁いだ既婚者は、召し上げて未婚の兵士と再婚させるなどした。この政策は「召し上げる際には奴隷を身代わりに出しても良い」「召し上げた既婚者のうち容姿の良い者については後宮に入れる」などの附則が仇となり、国内での人身売買を横行させてしまう。金持ちは妻の身代わりとなる奴隷を買い求め、貧乏人は自らの妻女を金銭で金持ちに差し出したのである。
これらの政策について、重臣のほとんどが反対をしたが、明帝はこれを強硬に推し進めた。
これらの政策に対して司馬光は『資治通鑑』の中で「明帝は諸葛亮の死による外圧の消滅したことで気が緩み、自らの好みの大土木事業を行った」としている。これに対して日本の東洋史学者安田二郎は「明帝の宮殿造営は諸葛亮の死の前より行われており、外圧の消滅とは関係がない。この土木事業は農民に収入を与えるためのいわば公共事業であり、明帝はこれを『社稷の計』であると強い信念を持って断行したものである。」とする[6]
人物については、司馬懿・曹真・陳羣・劉放・孫資などの大臣に全面的な信頼を寄せた。また、父の曹丕と異なり、諫言した人物や気に入らない人物だからといってそれを処刑することはしなかった[7]。
曹叡の人物観を示す逸話が、『魏志』廬毓伝に見える。
当時、夏侯玄やその友人である諸葛誕、劉放の子劉煕、孫資の子孫密らが人物評価を行い、四聡八達(四人の聡明な人物と八人の達人)と互いに格付けをしあい、当時の人々から才人との声望を得ていた。つまり、人々からの称賛が先に有って格付けが行われたのではない。まず先に内輪で内々に格付けを行い、それを自分以外の面子に伝聞形で宣伝させる。前段の工作で自作自演ではないとの印象を与え、箔付けによって自らの声望を高めんとしたのである。
曹叡はこれを軽薄だとして嫌い、彼らを即座に全員免職にし、官吏となる資格を剥奪した。この時、曹叡が廬毓に対して言った言葉が「画餅」であるが、その用い方には「世間で評される名声は上辺の評価に過ぎず、実を伴わないことが多すぎる」というニュアンスがあり、いたずらに名士才子を褒めそやす風潮を嫌悪する心情が見える。
これに対して、廬毓は「名声は、特別な人材を招くには不適でも、普通の人を集めるには適当でしょう。普通の人間とは、勉学して生来の人格を矯正し、そこから名を成すものです。臣が人を推薦するとき、最初はやはり人物の評判に注目し、普通の人を招くのです」と答えている。
結局、曹叡は一度下した処分を覆す事は無く、終生彼等を登用しなかった。
劉曄の評では、初めて曹叡に謁見した際、他の廷臣にその人となりを尋ねられて「秦始皇や漢武の風を持つが、この二人には僅かに及ばない」と答えている。
「冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動した。君主たるに相応しい気概の持ち主であった。しかし、当時の人民は度重なる戦争で疲弊し、天下も三分されており、まずは先代の方針に従って、広大な版図の復興をなすべきであったのに、にわかに秦の始皇帝や漢の武帝の後を追うかのように宮殿の造営を行って、将来に対する計画とした。それは致命的な病というべきであった」 [8]
一方で同じ『三国志』の三少帝紀では、「私の情愛に囚われて幼子(斉王・曹芳)に皇位を伝え、一人の人物に後事を託さず、あくまで一族の者を参与させた。そのために曹爽は誅され、斉王は帝位を追われることになった」と非難している。[9]
同時代の歴史書を書いた孫盛の評。
「大臣を優遇冷遇し、その言葉を素直に受け入れる事が出来た。諫言に顔色を変える事があっても、それで殺す事は一度もなかった。その人としての器はまさに、君主とはかくあるべし、と言えるものだった。反面、徳行を行い人民を教化することを考えず、家を継ぐべき嫡男を作ろうとせず[10]、国家の大権を一部の重臣に集中させ、国の社稷を崩してしまった。悲しむべき事である」[11]
家族
兄弟
東郷公主 - 同母妹だが早世した
后妃
虞氏 - 平原王時代の妃
毛皇后(悼皇后)
郭皇后(元皇后)
実子
斉公主 - 明帝の長女。李韜夫人となり二子をもうけた。のち、舅の李豊が司馬師の排除に失敗して誅殺されると、李氏の三族も皆殺しにされたが、李韜の子どもたちだけは、公主所生であり明帝の直系の血筋ということで助命された。このとき、既に斉公主は没していたとみられる。
曹冏(清河王)
曹穆(繁陽王)
曹殷(安平哀王)