人物については、司馬懿・曹真・陳羣・劉放・孫資などの大臣に全面的な信頼を寄せた。また、父の曹丕と異なり、諫言した人物や気に入らない人物だからといってそれを処刑することはしなかった[7]。
曹叡の人物観を示す逸話が、『魏志』廬毓伝に見える。
当時、夏侯玄やその友人である諸葛誕、劉放の子劉煕、孫資の子孫密らが人物評価を行い、四聡八達(四人の聡明な人物と八人の達人)と互いに格付けをしあい、当時の人々から才人との声望を得ていた。つまり、人々からの称賛が先に有って格付けが行われたのではない。まず先に内輪で内々に格付けを行い、それを自分以外の面子に伝聞形で宣伝させる。前段の工作で自作自演ではないとの印象を与え、箔付けによって自らの声望を高めんとしたのである。
曹叡はこれを軽薄だとして嫌い、彼らを即座に全員免職にし、官吏となる資格を剥奪した。この時、曹叡が廬毓に対して言った言葉が「画餅」であるが、その用い方には「世間で評される名声は上辺の評価に過ぎず、実を伴わないことが多すぎる」というニュアンスがあり、いたずらに名士才子を褒めそやす風潮を嫌悪する心情が見える。
これに対して、廬毓は「名声は、特別な人材を招くには不適でも、普通の人を集めるには適当でしょう。普通の人間とは、勉学して生来の人格を矯正し、そこから名を成すものです。臣が人を推薦するとき、最初はやはり人物の評判に注目し、普通の人を招くのです」と答えている。
結局、曹叡は一度下した処分を覆す事は無く、終生彼等を登用しなかった。
劉曄の評では、初めて曹叡に謁見した際、他の廷臣にその人となりを尋ねられて「秦始皇や漢武の風を持つが、この二人には僅かに及ばない」と答えている。
「冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動した。君主たるに相応しい気概の持ち主であった。しかし、当時の人民は度重なる戦争で疲弊し、天下も三分されており、まずは先代の方針に従って、広大な版図の復興をなすべきであったのに、にわかに秦の始皇帝や漢の武帝の後を追うかのように宮殿の造営を行って、将来に対する計画とした。それは致命的な病というべきであった」 [8]
一方で同じ『三国志』の三少帝紀では、「私の情愛に囚われて幼子(斉王・曹芳)に皇位を伝え、一人の人物に後事を託さず、あくまで一族の者を参与させた。そのために曹爽は誅され、斉王は帝位を追われることになった」と非難している。[9]
同時代の歴史書を書いた孫盛の評。
「大臣を優遇冷遇し、その言葉を素直に受け入れる事が出来た。諫言に顔色を変える事があっても、それで殺す事は一度もなかった。その人としての器はまさに、君主とはかくあるべし、と言えるものだった。反面、徳行を行い人民を教化することを考えず、家を継ぐべき嫡男を作ろうとせず[10]、国家の大権を一部の重臣に集中させ、国の社稷を崩してしまった。悲しむべき事である」[11]
家族
兄弟
東郷公主 - 同母妹だが早世した
后妃
虞氏 - 平原王時代の妃
毛皇后(悼皇后)
郭皇后(元皇后)
実子
斉公主 - 明帝の長女。李韜夫人となり二子をもうけた。のち、舅の李豊が司馬師の排除に失敗して誅殺されると、李氏の三族も皆殺しにされたが、李韜の子どもたちだけは、公主所生であり明帝の直系の血筋ということで助命された。このとき、既に斉公主は没していたとみられる。
曹冏(清河王)
曹穆(繁陽王)
曹殷(安平哀王)
曹淑(平原懿公主)
(いずれも早世)
養子
曹芳(斉王)
曹詢(秦王) - 従弟の曹楷の子という
脚注^ 『魏書』「文帝紀」黄初(延康)元年五月「封王子叡為武徳侯」。裴松之注では建安10年とするが、その根拠は不明。
^ 『三国志』「魏書明帝紀」、景初元年6月。
^ 曹芳は養子。曹叡は全ての実子に先立たれてしまっていた。娘を葬る際の祭礼の様式が限度を超えていると臣下から諫言されても強行したという逸話がある
^ 『献帝春秋』によると、秦朗は曹操の秦夫人の連れ子であり、実父は呂布の将秦宜禄。『魏略』によると、宮中で曹操の子等と兄弟同然に育てられ、曹叡と非常に親しかったという
^ 『漢晋春秋』によると、司馬懿は撤退する蜀軍を追撃しようとしたが蜀軍の士気の高さに驚き追撃を中止した。この事から「死せる諸葛(諸葛亮)、生ける仲達(司馬懿)を走らす」という諺が生まれた。
^ 「曹魏明帝の『宮室修治』をめぐって」(『東方学』111)
^ 楊阜や高堂隆は、人事についてもしばしば直言を以て曹叡を諫め、ために?勘を被ったことも多かった
^ 原文「沈毅剛識、任心而行。蓋有君人之至概焉。于時百姓彫弊、四海分崩、不先■修顕祖、闡拓洪基、而遽追秦皇・漢武、宮館是営、格之遠猷。其殆疾乎」※原文における■にあたる字は、律の行人偏のない「聿」であり、発音はイチ・イツ
^ 原文「情繋私愛、撫養嬰孩、傳以大器、託付不專、必參枝族、終于曹爽誅夷、齊王替位」
^ 皇族を冷遇して藩屏の役割を削いだことを指す、との解釈もある
^ 原文「優礼大臣、開容善直、雖犯顔極諫、無所摧戮、其君人之量、如此偉也。然不思建徳垂風、不固維城之基、至使体験偏処、社稷無衞、非夫」
出典
『正史 三国志 1 魏書T』 (陳寿著、裴松之注、井波律子訳、ちくま学芸文庫、1992年12月、ISBN 4-480-08045-7)、220-283頁。
『正史 三国志 3 魏書V』 (陳寿著、裴松之注、今鷹真訳、ちくま学芸文庫、1992年12月、ISBN 4-480-08043-0)、123-127、255、504-506頁。
『正史 三国志 4 魏書W』 (陳寿著、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳、ちくま学芸文庫、1993年03月、ISBN 4-480-08044-9)、122-124、127-128、131-143、162-163、255頁。
『正史 三国志 6 呉書T』 (陳寿著、裴松之注、小南一郎訳、ちくま学芸文庫、1993年05月、ISBN 4-480-08046-5)、9-31、120頁。
『正史 三国志 8 呉書V』 (陳寿著、裴松之注、小南一郎訳、ちくま学芸文庫、1993年07月、ISBN 4-480-08089-9)、236-240頁。
『正史三国志 群雄銘銘伝』 (坂口和澄著、光人社刊、2005年07月発行、ISBN 4-7698-1258-2)、27-29、144-145、160?161、193、204、271、284、296-297頁。