戦前から架橋構想はあったが、技術的な問題および軍事上の理由(大型軍艦が明石海峡を航行できなくなるため)から具体化には至らず。
1945年(昭和20年)12月9日 - 播淡聯絡汽船「せきれい丸」が、明石海峡で沈没。死者304名発生。地元で架橋運動が盛り上がる。(せきれい丸沈没事故)
1955年(昭和30年)4月 - 国鉄が本四淡路(Aルート)の調査開始。
1955年(昭和30年)5月11日、瀬戸内海で紫雲丸事故が起きる。修学旅行中の児童などを中心に死者168名を出した。この事故が瀬戸大橋や明石海峡大橋の建設の機運を一気に高めた。
1959年(昭和34年)4月 - 建設省が道路の調査開始。
1969年(昭和44年)5月 - 新全国総合開発計画策定。
1970年(昭和45年)7月 - 本州四国連絡橋公団設立。
1973年(昭和48年)10月 - 工事実施計画認可。
1985年(昭和60年)8月 - 国土庁長官、運輸大臣、建設大臣で明石海峡大橋を道路単独橋とする方針に合意。
1985年(昭和60年)12月 - 明石海峡大橋事業化決定。
1986年(昭和61年)4月 - 起工式。
1988年(昭和63年)5月 - 現地工事着手。
舞子側より
1989年(平成元年)3月 - 2P鋼ケーソン設置。(Pはピアー、橋脚)
1989年6月 - 3Pケーソン設置。
1990年(平成2年)1月 - 4A基礎工開始。(Aはアンカーレイジ、橋台)
1990年3月 - 1A基礎工開始。
1992年(平成4年)4月 - 2P主塔架設開始。
1992年6月 - 3P主塔架設開始。
1992年9月 - 1A基礎工完了。
1992年12月 - 4A基礎工完了。
1993年(平成5年)1月 - 2P主塔架設完了。
1993年4月 - 3P主塔架設完了。
1993年11月 - パイロットロープ渡海。
1994年6月 - ストランド架設開始。
1994年11月 - ストランド架設完了。
1995年1月17日 - 阪神・淡路大震災が発生、全長が約1m伸びる。
1995年6月 - 補剛桁架設開始。
1996年9月 - 補剛桁閉合。
1998年4月5日 - 供用開始。
1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生したが、その震源地はほぼこの橋の真下だった。当時この橋は建設中で、メインケーブルストランドの張り渡しが終わった段階だった。 この地震による橋梁構造物の損傷はなかったが、地盤が変位したことで中央径間が約0.8m、淡路島側の側径間が0.3mそれぞれ拡がった。このほか、神戸側橋台が0.13m上方へ、神戸側橋脚が0.09m上方へ、淡路島側橋脚が0.19m下方へ、淡路島側橋台が0.22m上方へ移動した。
明石海峡大橋のケーブルには光の三原色のイルミネーションランプが1084組取り付けられており、季節や日時に応じて彩りを変えている。(国際的な照明デザイナーである石井幹子が担当した。)ライトアップは日没から24時までである。橋が日本標準時子午線近くにあることから、毎正時と毎30分にも点灯している。
ライトアップの彩色
平日:春季は緑、夏季は青、秋季は赤、冬季は黄。
休日:緑と青。
時報パターン(正時):虹色。
時報パターン(毎30分):誕生石をイメージした色。
地元や国民的行事のイベントに合わせた色でライトアップされることもある。
2001年 皇太子夫妻の子(愛子内親王)が産まれたのを記念して上部赤色、下部白色に。
2002年 FIFAワールドカップ開催を記念して青色。(日本代表チーム勝利時には上部赤色、下部白色)
2003年 阪神タイガースのリーグ優勝を記念して縞模様。また、2005年のリーグ優勝では、縞模様に加えて毎30分に上部赤色、下部白色のパターン。
阪神・淡路大震災発生日の1月17日は、鎮魂の願いを込めた白一色。(時報はなし)
⇒ライトアップパターンはこちらを参照のこと
神戸側の橋桁内に舞子海上プロムナードという遊歩道、展望台が設けられている。橋台(アンカーレイジ)内のエレベータで上り海面からの高さ47mへ上がり、そこから海側約150mまで行くことができる。途中、床が透明になっている部分もあり直接海面を望むことができる。
同じく神戸側の陸上に橋の科学館が開設されており、明石海峡大橋を中心に橋についての技術的、歴史的展示を行っている。頭上には風洞実験に用いた1/100サイズの模型も展示されている。