明治天皇
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略歴


出生

明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、京都・中山忠能邸で生まれ、父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名した。

万延元年(1860年)5月、儲君(皇太子)となる。9月28日、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」の名を賜る(=睦仁親王となる)。

慶応2年12月25日1867年1月30日)、孝明天皇が俄かに崩御。慶応3年1月9日、満14歳で践祚した。


幕末の動乱

この頃、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。慶応3年10月15日(1867年11月10日)に、明治天皇は、将軍徳川慶喜からの大政奉還の上表を勅許し、政権を朝廷に戻した。さらに慶応3年12月9日1868年1月3日)には討幕派の主導において王政復古の大号令を発し、「新政府樹立」を宣言。東征を命じ、旧幕府軍と 明治元年(1868年)から明治2年(1869年)にかけて戦い勝利した(戊辰戦争)。


新時代・明治明治天皇(明治5年)

この間、明治元年3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書が発せられたのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されるとした)。

明治2年(1869年)、東京に遷って東京城(旧・江戸城)を皇居と改称し、6月17日7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美岩倉具視木戸孝允大久保利通らの発言権が大きくなっていった。明治4年7月14日1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。

他方、明治3年正月3日1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布の詔)を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。※注:1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めた(明治5年太政官布告第337号)。


征韓論

明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨をもって西郷隆盛朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から明治8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。


近代国家の確立

明治15年(1882年)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。

明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度市町村制府県制郡制の制定など、津々浦々に至る官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行なった。

明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、近代天皇制国家確立の基礎となった。翌・明治23年(1890年)には教育勅語を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki