日露戦争
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経過日露戦争の経過


開戦時の両軍の基本戦略
日本側 
陸軍は第一軍で朝鮮半島へ上陸、鴨緑江を渡河しつつ、在朝鮮のロシア軍と第一会戦を交えた後に満洲へ進撃。第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。そののち、満洲平野にて第三軍、第四軍を加えた四個軍でもって、ロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。海軍は旅順及びウラジオストックにいるロシア太平洋艦隊を黄海上にて殲滅した後に、ヨーロッパより回航してくるバルチック艦隊と決戦し、殲滅する。軍令機関が陸海軍並列対等となった初めての戦争であることに留意。



ロシア側 
黄海の制海権確保の前提に基づき、日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。失敗した場合は日本軍を引き付けて、順次ハルビンまで後退して、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。


開戦仁川沖海戦で炎上するロシア艦鴨緑江に架けた仮設橋を渡る第一軍部隊遼陽会戦でロシア軍の使用した観測気球の気嚢

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦奇襲攻撃に始まった。この攻撃ではロシアの戦艦に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸した。瓜生外吉少将率いる日本海軍第三艦隊の巡洋艦群は、同旅団の護衛を終えたのち、2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し損傷を与えた(仁川沖海戦)。2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた[1]

ロシア旅順艦隊は日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。もしロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)が極東に回航して旅順艦隊と合流すれば戦力は圧倒的となり、制海権はロシアに奪われることになる。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。4月25日には日本軍の輸送艦金州丸を撃沈するなど、日本近海を縦横無尽に行き来し、これを追う日本の上村中将率いる第二艦隊を右往左往させ、船舶による補給に頼る日本軍を悩ませた。


黄海海戦・遼陽会戦

黒木為大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。

6月6日、乃木希典大将率いる第三軍が大連に上陸したが、陸軍の旅順攻略参戦を頑なに拒む海軍の意向を受け、満洲軍総司令部の指示により旅順に向けて漸進を余儀なくさせられる。海軍陸戦重砲隊が旅順要塞への砲撃を開始した。これを受けて旅順艦隊は旅順から出撃、8月10日、東郷平八郎大将率いる連合艦隊との間で黄海海戦となった。この海戦で連合艦隊は旅順艦隊の巡洋艦3隻他を撃沈したが、主力艦を撃沈することはできなかった。そのころロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていた。8月14日、上村彦之丞中将率いる日本海軍第二艦隊は蔚山沖でようやくウラジオストク艦隊を捕捉し、大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。他方陸軍は7月の大本営通達を受けて、第三軍は旅順攻囲戦の第一回総攻撃を8月19日に開始した。だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大きな損害を受け失敗に終わる。

8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗に終わる(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。


旅順攻略旅順水師営で降伏したステッセル将軍(中央右)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki