日露戦争
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日本海海戦・講和へ

戦争の決着をつけたのは海戦であった。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発し地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突した。連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅した。なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行った。

バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝で、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。この結果、日本側の制海権が確定した。

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけた。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入した。戦費のほとんどは戦時国債によって調達された。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達した。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及んだ。

さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上った。これは当時の陸軍軍医総監だった森鴎外(森林太郎)の責任も大きかった。日清・日露戦争は脚気との闘いでもあった。麦飯を混ぜていた海軍では脚気の死者はほとんどなかった。


年表第一軍司令官黒木為禎奉天会戦後に点呼をとる日本軍一師団第一軍に同行する観戦武官、イアン・ハミルトンおよびマックス・ホフマンの姿が見える

1904年
2.6日本、ロシアに対して最後通牒発令
2.8日本陸軍、仁川に上陸開始
2.8日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
2.9仁川沖海戦
2.10相互宣戦布告
2.24第一次旅順口閉塞作戦
3.27第二次旅順口閉塞作戦
5.1鴨緑江会戦
5.8日本陸軍、遼東半島に上陸開始
8.10黄海海戦
8.14蔚山沖海戦
8.19第一次旅順総攻撃
8.30遼陽会戦
9.19第二次旅順総攻撃
10.9沙河会戦
10.15バルチック艦隊出航
11.26第三次旅順総攻撃
12.5日本軍、旅順口203高地を占領
12.31第四次旅順総攻撃
1905年
1.2旅順開城
1.25黒溝台会戦
3.1奉天会戦
5.27日本海海戦
6.9セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告
6.12ロシア、講和勧告を正式に受諾
7.7日本軍、樺太作戦開始し、南樺太へ上陸
7.31日本軍、樺太作戦樺太を占領
8.9ポーツマスで日露講和会議がはじまる
9.1日露両国、休戦議定書に調印(休戦)
9.5日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印
10.14日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准(終戦)



影響


日本

ロシア帝国の南進を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができた。こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなった。またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与した。

ポーツマス条約の内容は、賠償金を取れないなど、多くの国民にとって予想外に厳しい内容だったため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こり、戒厳令が敷かれるに至った。これは、ロシア側へいかなる弱みともなることをも秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民期待を否応なしに煽ったために修正がきかなくなっていたこともあり、国民の多くは戦争をしている国力の実情を知らされず、目先の勝利によってロシアが簡単に屈服させられたように錯覚した反動から来ているものである。

この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官のステッセルが降伏した際に帯剣を許すなど、武士道精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、戦争捕虜を非常に人道的に扱い、日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった施設が著名であったため、ロシア兵側では降伏することを「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある[2]建設中の永久防塁(明治38年頃)

また、元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論[3]とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱えて、1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案が纏められる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki