「日田」の地名の由来には幾つかの説がある。
神話では、「湖であった日田盆地に大鷹が東から飛んできて湖水に羽を浸し、羽ばたき、旭日の中を北へ去ると、湖水は轟々と抜けて干潟となった。そして日隈、月隈、星隈の三丘が現れた。」という「日と鷹伝説」がつたわっている。それよりヒタカと呼ばれるようになったという。 日田郡と呼ばれる以前は日高郡と呼ばれており、一説には、本来、日高見国であって、そこから日高、日田になったという。現在も地名は、三芳地区に「日高町」として現存している。 また、『豊後国風土記』によると景行天皇の九州遠征時に浮羽から日田に立ち寄り「久津媛」(ひさつひめ)と名乗る神が人となり現れている。久津媛が訛り「日田」になったと『豊後国風土記』は伝える。
『旧事本紀』国造本紀に、古代ヒタにおいての国造には、「成務天皇の時代に葛城国造同祖、鳥羽足尼(宿禰)を定めた。」とある。
止波(鳥羽)宿禰は、西暦470年以降(古墳時代後期)に靱編連(ユギアミノムラジ。現在の日田市刃連町付近)に会所宮(現在の会所山久津媛神社周辺)とよばれた屋敷に居住し、村人に農業などを指南した偉人として『豊日志』(現存せず)に記されていたとされる。
欽明天皇の時代、日下部君の祖であるオオアジ(邑阿自)が靱部として仕えており、村に就いて、家を構えた。これにより靭負連(ユギオヒノムラジ)とよび、後に靭編(ユギアミ)と呼んだと『豊後国風土記』にある。ちなみにユギオイとは、靭(ユギ・ユキ、矢を入れる容器)を使用するものをいい、ユギアミとは、靭を作る人の事を言う。大化の改新後は郡司に任ぜられ、大蔵氏が郡司に就くまで日田の支配権を握っていたと考えられている。
834年頃に、在地小豪族の大蔵氏が居付いたとされている。日田大蔵氏に関しては中井王の子孫であるという説もあるが、一方、宇佐を本拠としていた鬼蔵永弘が日田に居付いて、大蔵日田氏となったという説もあり、渡来の秦族であるというものまであるので定かではない。
日田城及び大蔵館(鷹城)、現在の慈眼山公園を拠点に栄華を極め1444年まで590余年一系を保ったが家臣たちにより16代永包を殺害した永好を美濃国で殺害し滅亡する。その後、大友氏より養子永世を受けて大友系日田氏として再興するも大友氏滅亡とともにまもなく滅亡する。
近世日田市内豆田町の町並み
織豊時代の1592年に豊臣家蔵入地(直轄地)として宮木豊盛が代官として日隈城を築き、近世の日田藩屏の基礎が築かれ、小川光氏の丸山城築城以降に大名領を経て幕府直轄領(天領)となり城を廃城として日田陣屋を設置し西国郡代が置かれる。初代郡代は揖斐政俊、最後の郡代は窪田鎮克である。享保19年(1734年)当時には、豊前・豊後・日向・筑前合わせて12万石を支配し、江戸末期には16万石にもなった。
幕末に広瀬淡窓の開いた私塾咸宜園には全国から生徒が集まり、塾生には蘭学者の高野長英や近代軍隊の基礎を作った大村益次郎などがいる。
また江戸時代に京大坂江戸を手本に町人文化が繁栄を極め、現在でも小京都などと呼ばれる。特に、代官・郡代により掛屋に指定された商人は大名貸しの金利などにより利益を得ており、その利益や蓄えを俗に日田金(ひたがね)ともいった。日田金は一例として、広瀬淡窓の弟である6世広瀬久兵衛(ひろせきゅうべい・1790年-1872年)による水路(小ヶ瀬井路)や通船用への川の整備や干潟の干拓(呉崎新田・久兵衛新田(宇佐)など)工事等の事業・大名の財政再建などに投じられている。
明治以降、松方正義を知事として迎えて日田県となり、その後、大分県への編入を経て現在に至る。
近現代1956年当時の市域
1940年(昭和15年)12月11日 日田町と三芳・高瀬・光岡・朝日・三花・西有田の6村が合併し市制施行。
1955年(昭和30年)3月31日 東有田・小野・大鶴・夜明・五和の5村を編入。
2005年(平成17年)3月22日 日田郡前津江村、中津江村、上津江村、大山町、天瀬町を編入。
詳細な行政区域の変遷は、日田郡の項を参照されたい。1889年(明治22年)の町村制度施行の際における日田郡全域が現在の市域にあたる(一部部分的な編入などによる例外あり)。