暴動収拾後も人々の反発は収まらず、桂太郎首相は立憲政友会を率いる西園寺公望と密かに会談を持って収拾策を話し合った。この結果、翌年1月に第1次桂内閣は総辞職して代わりに第1次西園寺内閣が成立した。西園寺や新内務大臣原敬は反政府側から出された戒厳令関係者の処分要求を拒絶して、事件の幕引きを図ったのである。
この事件の後、大正政変やシーメンス事件に際して起こった民衆騒擾は、権力者に民衆の力を思い知らせるとともに、大正デモクラシーの推進力にもなった。
だが一方で、新聞等で扇動された民衆騒擾に対して、有効な情報公開と公開討論等による合理的な世論醸成ができなかった当時の政府は、文民統制の近代国家の法制度の不備(軍部大臣現役武官制等)と陸海軍人のテロの際の実行者と責任者の不完全な処分などの無策を遠因として、農民の生活保護を大義名分として軍部の政治への干渉を許し、「満州は日本の生命線」と叫ぶ活動家による世論誘導もあいまって、満州事変の戦線拡大を招いた。
注釈^ 出典:中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』191頁〜194頁、岩波新書(1996年:第一刷) ISBN 9784004304586
関連項目
日露戦争
ポーツマス条約
対外硬派
カテゴリ: 明治時代の事件 | 日本の暴動事件 | 1905年
更新日時:2008年7月15日(火)10:32
取得日時:2008/08/18 13:04