14世紀 - 15世紀の時期には、社会の中世的分権化が一層進展していったが、15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んでいった。この地域国家形成の動きは、中世社会の再統合へとつながり、16世紀末には日本の統一政権が樹立されるに至り、時代は近世へと移行した。「日本」の領域はこの時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太を含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は「日本」の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、いわば境界というべき地域だったが、18世紀にシャクシャインの乱やロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、アイヌおよびロシアへの他者意識が「日本」「日本人」観となって庶民層にまで定着し、「日本」の領域も蝦夷が島(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、「日本」の西の境界は、中世を通じて鬼界島・硫黄島までと意識されていた。17世紀初めに薩摩島津氏が琉球王国を侵攻し、支配下におさめたが、その後も琉球王国は日本・中国への両属を続けた。
19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとして「日本」「日本人」意識がますます強まり、現代の「日本」「日本人」意識とほぼ一致するまでに至った。アジア各国が欧米列強の植民地とされていく中で「日本」が独立の歴史を長く保ったことは、国民国家意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設の基礎となったと考えられている。
明治維新を迎えた日本は、近代的な国民国家の建設を急速に進めていった。同時に近隣国と国境確定を行い、1875年(明治8年)に樺太を放棄する代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(→樺太・千島交換条約)、南西諸島方面は琉球処分を通じて実効的な支配に成功し、ここに一旦、近代的国家としての日本国領域が確定した。
自由民権運動を経て日本は1885年(明治18年)に、内閣制度を確立して、1889年(明治22年)には大日本帝国憲法を制定し、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして日本は、アジアで初めて憲法と議会を持つ、近代的な立憲国家となった[25]。
19世紀後半 - 20世紀初頭当時の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られた日本は、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。両戦争を通じて日本は、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土におさめ、関東州租借権を獲得した。その後日本は、1910年(明治43年)に韓国併合を、1919年(大正8年)に国際連盟からの委任を受けて南洋群島の領有権・統治権を獲得した。また、大正時代には大正デモクラシーが起こり、政党政治と普通選挙が実現した。
1930年代には中国東北部への進出を強め、満州国を建国・傀儡化して一定の支配権を得るにいたり、国内では軍部が台頭した。こうした対外志向は、特にアメリカ合衆国をはじめとする欧米諸国との権益と真っ向から衝突し、最終的には1945年(昭和20年)の大東亜戦争(太平洋戦争)での敗北によって破局に至った。
敗北した日本は、連合国軍の占領体制下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領有権・統治権の総てを事実上失った。日本が他国の支配を受けるのは史上初の経験だった。連合国占領下において国制改革が進められ、憲法改正を行い、日本国憲法を制定した。1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約により占領が解除されると、その後の日本は1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げた(→高度経済成長#日本の高度経済成長)。また1968年(昭和43年)には小笠原諸島、1972年(昭和47年)には沖縄県の施政権がそれぞれアメリカ合衆国から返還された(→沖縄返還)。
1970年代後半以降の日本は、先進国の一員として数々の国際的役割を果たし、多くの発展途上国では成長モデルとして目標にされてきた。21世紀に至り、日本は社会の超高齢化とそれに伴う人口減少、経済の世界規模化への対応などの課題に直面している。
『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、戦前はこれが日本建国の画期と考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、紀元前660年を元年とする紀年法「皇紀」が1873年(明治6年)1月1日から使用された[26]。しかし、歴史学の立場からすると、神武天皇即位は歴史的事実とはされておらず、神話の反映と見られている。戦後になり皇国主義的な歴史観が排除されると、皇紀が使用されることはほとんどなくなった[27]。