日本
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イギリスBBCワールドサービスが2005年より毎年公表している、10前後の特定の国および地域が世界に与えている影響の印象を尋ねる世界規模の世論調査では、日本が質問対象国となった2006?2008年の各年いずれも、「好影響を与えていると思う」との回答率がもっとも高い国の一つとなった。日本は、国際的に非常に高い評価を得ている[6]


国号

国号には「日本国」が通常用いられる。日が昇る「ひのもと」の地であることに由来していると考えられている。

根本法令である憲法の表題には、「日本国憲法」「大日本帝国憲法」のように「日本」国号が明示されてはいるが、国号を日本国と直接かつ明確に規定した法令はない。


国号の成立

「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられている。天武天皇治世において成立したとする説[7]と、701年大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説[8]が有力視されている。『日本書紀』大化元年七月条に高句麗百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、これは後に定められた大宝律令公式令を元にして『日本書紀』編者が、潤色を加えたものと今日では考えられている[要出典]。

7世紀後半はが対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期だった。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んだ。この取り組みを大きく推進したのが天武天皇だった。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられているが、「日本」国号の成立を天皇号の成立と同時期と見るのが、前者説である(例えば吉田孝飛鳥浄御原令(689年)にて「日本」国号と天皇号が定められたと推測している[9])。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至った。そこで、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説である(例えば神野志隆光は具体的に、大宝令公式令詔書式において「日本」国号が定められたとしている[10])。

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されている。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(大周)へ伝えられたことが確認できる。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。国号変更の事情について、旧唐書が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、新唐書は「倭が日本を併合し、国号を奪った」としており、混乱が見られる[11]。これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたと現在では考えられている。

旧唐書・新唐書が語るように、「日本」国号は日本を東方に見る国、すなわち中国大陸の国からの視点により生まれた[12]平安時代初期に成立した『弘仁私記』序において、日本国が中国に対して「日の本」すなわち東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度にわたって行なわれた日本書紀講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても、中国の視点により名付けられたとする説が採られている。神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、ゆえに日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。また、『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出処」の天子と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もあるが、仏典『大智度論』に日出処は東方の別表現である旨の記述があり、現在「日出ずる処」は単に文飾に過ぎず、「日本」国号の成立とは無関係であると考えられている[13]


読み

日本政府は正式な読み方を明確に定めていない。「にっぽん」あるいは「にほん」と読まれる。

「日本」の国号が成立する以前、対外的には「倭国」または「倭」と称したが、「やまと」の政治勢力が中心となって倭を統一したため、倭は「やまと」と読まれるようになった。日本へ国号変更された後も「やまと」の呼称は残り、日本は「やまと」と読まれ続けた。

同時に、「日本」国号は7世紀後半の国際関係から生じたものであるため、当時の国際的な読みである音読、すなわち「ニッポン」(呉音)または「ジッポン」(漢音)と読まれただろうとも推測されている[14]。「ニホン」の読みがいつ始まったかは定かでない。平安時代の仮名表記では促音・濁音の区別がなかったため、「ニッポン」音も「にほん」と表記された。「ニホン」の読みはここから起こったと考えられている。同じ平安時代には「ひのもと」の読みも新たに起こっている。

室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』『日本語小文典』等には「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合では「ニッポン」が使われ、日常の場面では「ニホン」が使われていた[15]。 Xipangu、Japan、Japon 等、ヨーロッパ語圏での日本を表す語は「ジッポン」に由来すると考えられているが、「ジッポン」音は現在伝わっていない。このことから小池清治は、中世日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用するのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていたのであり、日常的には「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのではないかと推測している[16]

その後、明治期に入っても「ニッポン」「ニホン」の統一がなされない状況の中、1934年(昭和9年)に文部省臨時国語調査会が、国号呼称を「にっぽん」に統一し、外国語表記もJapanを廃してNipponを使用すること、とする案を示した。しかしながら、完全な統一は果たされなかった。現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣切手などには「NIPPON」と描かれている。「NIHON」と表記する例はあまり多くない[17]


別称・外国語呼称

日本の別称は古くから多様である。

自らを呼んだものには、まず「葦原中国」(『古事記』、『日本書紀』神代)、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(『古事記』)、「豊葦原千五百秋瑞穂国」(『日本書紀』神代)等があり、これらに共通する「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われている。「大倭豊秋津島」(『古事記』)、「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)の「秋津島(洲)」は(とんぼの島)の意であるが、孝安天皇の都の名(室秋津島宮)に由来するとされている。同じく「師木島」(『古事記』)、「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)等の「しきしま」も、欽明天皇の都(磯城島金刺宮)に由来するとされる。「大八洲」(『養老令』)、「大八洲国」(『日本書紀』神代)は、多くの島からなる島国の美称と解されている。このほか、「磯輪上秀真国」「細矛千足国」「玉垣内国」(『神皇正統記』)、「浦安国」「藤根国」(『詞林采葉抄』)、「日出処」、「大和国」、「和州」等多くの別称があった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki