本事故は、機体JA8119にとっては3度目の事故である。
墜落前の事故
1978年6月2日、東京国際空港(羽田空港)から大阪国際空港へのフライトで着陸しようとした際、パイロットが操縦桿の操作を誤ったため、機体が通常の着陸角度より上に上がりすぎ、滑走路に機体尾部を接触させるしりもち事故を起こし、機体尾部にある圧力隔壁を破損。機体のバウンドによりケガ人が3名発生。この事故での圧力隔壁のボーイング社における修理ミスが日本航空123便墜落事故の引き金になったとされている。
1982年8月19日、羽田空港から千歳空港へ飛行し着陸の際、機体が右に逸れ誤って第4エンジンを地上に接触させたため、機長は着陸をやり直した。原因は天候による視界不良である。
なお、後者の事故によるエンジン損傷は事故調査報告書によれば、本墜落事故の直接の原因にはなっていない。
当日の123便は18時00分羽田発、離陸後は南西に進んだ後、伊豆大島から西に巡航、串本上空で北西に進み、18時56分伊丹着のフライトプランであった。
フライトに使用されたJA8119は就航以来約18800回飛行し、当日は503・504便で羽田?千歳、363・366便で羽田?福岡を往復し、123便で5回目のフライト。伊丹到着後、130便として伊丹発羽田着の最終便を運航する予定であった。また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。
乗務員は、高濱雅巳機長(49歳)[6]、佐々木祐副操縦士(39歳)、福田博航空機関士(46歳)の男性3人のコックピット・クルーと、波多野純チーフパーサー(39歳)を筆頭とする客室乗務員(女性11人)12人の計15人。乗客は509人。コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦、クルーへの指示を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、航空機関士は363便と366便でJA8119に、副操縦士は別の機にそれぞれ乗務し、機長は当日最初のフライトであった。
18時04分に乗員乗客524人を乗せた123便は定刻をやや遅れて[7]羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に当時の滑走路15から離陸した。搭乗方式はボーディングブリッジではなく、搭乗待合室から地上に降りて徒歩でタラップを昇る搭乗であった。
18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ftを通過したところで異常事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、その際ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう[8]。フゴイドやダッチロール[9]を起こした機体は迷走するとともに上昇、降下を繰り返すものの、クルーの操縦により17分間は20000ft(6000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(降着装置)を降ろした後、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft(4600m)も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉県上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。
機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデット・アナウンス[10]が流れた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。また一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。なお、生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたという。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全姿勢(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えた。乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。
なお、客室乗務員は終始乗客のサポートをしていたと生存者が語っており、機体後部に取り付けられていたコックピットボイスレコーダー(CVR)には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されている。また墜落現場からは、不時着後に備えて乗客に出す指示をまとめた一人の客室乗務員によるメモや、異常発生後のキャビン内を撮影したカメラが見つかっている。
地上との交信
123便は18時24分47秒に緊急救難信号「スコーク77(7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部(ACC)に傍受される。直後に機長が無線でACCに対して緊急事態発生のため羽田へ戻りたいと告げ、ACCはそれを了承した。123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。ACCは右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は遠回りとなる右旋回を希望した。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。
27分 ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答は無かった。またACCは、日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
28分 ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。
31分 ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸を提案するが123便は羽田を希望する。